マボロシの先
2018/02/09
カテゴリ:馬のはなし / Pacallaオリジナル
セントライトとシンザン。
1941年、1964年に三冠馬となった歴史的名馬である彼らの名は、世紀が変わり文明が発達した今日でも目にする。
嘘つけ。という方は、彼らの名の後ろに記念という言葉を付けてみてほしい。シンザンは冬、セントライトは秋に、私達を楽しませてくれている。
今現在、JRAのレースの中で正称として馬名を使用した重賞はこの2つだけだ。
競馬は馬が主役の文化なのだから、もう少し馬名レースを増やしてもいいと思うが、色々と制約があるのだろう。JRAの今後に期待したい。
今週は府中でクラシック戦線を占う重要なレース、共同通信杯が行われる。
過去にダービー馬を7頭送り出したこのレースの副称はトキノミノル記念という。
セントライトが三冠馬になった9年後の1950年、パーフェクトという馬が夏の函館でデビューした。初陣から桁が違う走りを見せつけたパーフェクト号は、名を改められる。
パーフェクト改め、トキノミノル。
名前が変わっても、この駿馬は強かった。一戦ごとに驚くような進化を遂げ続ける彼は、競馬の熱波を一般社会に伝播させた。
トキノミノルを見たい。
金持ちの道楽で、興じる者はアングラな連中ばかりという偏見的な競馬観は、この時、一瞬の崩壊を見た。
1951年6月3日。約7万人もの観衆が、第18回東京優駿大競走を見るため、府中に詰め掛けた。新聞屋さんは、それまでの謄写版を使わず輪転機使用による発行方法を採った。刷り上がった瞬間に売れていったという事実からも、ムンムンとした熱気を感じられる。
今では当たり前の輪転機による競馬新聞の発行は、このダービーが初めてだった。
史上初はまだある。7万人の観客数は、当時の府中のキャパを超えていた。そこで競馬会は障害コースを観戦用に開放する。これも今ではすっかりお馴染みの光景だ。
日本の競馬はファンのものになった。
歴史的なダービーを現地観戦していたある若手競馬予想家は、これらの光景を見て悟ったという。この若者が後に”競馬の神様”と呼ばれる大川慶次郎氏である。
世界が変わる瞬間なんてのは、普通に生きていれば目撃出来ないことの方が多い。頻繁ではないが、競馬は稀に世界が変わる瞬間を見せてくれる。トキノミノルという馬の登場により、アングラな世界が陽の射すものへと変わった。これだからいつ何時も競馬は見逃せないのである。
勝たなくてはならない。それも、ただ勝つだけではなく、主役として美しく魅せなくてはならない。
トキノミノル、手綱を握った岩下密政はこの重圧を見事にやり過ごした。
直線で抜け出し、坂を登る。息を合わせた人馬の一挙手一投足は、これぞサラブレッド、ジョッキーと言わんばかりの美しさだった。詰め掛けたファンが狂喜乱舞する。競馬に挑むウマが、社会のヒーローになった瞬間、トキノミノルの名がダービー馬として競馬史に刻まれた。
ラチを破壊しなだれ込んだファンへ、帽子を取り挨拶をしたオーナーの永田雅一氏は、視線を世界へ向けた。まだサンデーサイレンスがアメリカで産まれるかどうかも分からない時期の日本競馬界から世界へ。普通なら止せばいいのに…という挑戦だが、この時、トキノミノルを見た人々の脳裏には、勝つことしかなかったと思う。もし、私が当時、その空間にいたなら安酒場で「あれは地球の外へ出ても負けへんわ。」と、酩酊しながら叫んでいただろう。
熱狂を空気に大きく膨れ上がった夢の気球が、萎んだのはダービーから17日後、6月20日だった。
トキノミノル死す。
夢のサラブレッドは、私達の前からいなくなった。彼を死へと追いやったのは破傷風という菌感染が起因となり発症する病だった。
馬場で立派な優駿は、厩でも優駿である。トキノミノルは必死に耐えた。痛いよー。と鳴き叫ぶことなく、病に立ち向かい続けた。しかし、破傷風の悪魔は、そんな彼に慈悲の欠片も見せず、体を蝕み続けた。もし、破傷風が目に見えて、触れられる奴さんなら、私はブン殴ると思う。何の恨みがあって、トキノミノルに取り憑いたのか?運命とは非情なものである。
どうした?どうした?
意識が朦朧とする中、馬場で、厩でよく聞いた相棒、ミッちゃんの声が聞こえた。
トキノミノルが息を引き取ったのは、その直後だったという。
サラブレッドは野っ原で駆け回るウマ達と違い、人がいなくては生きていけない。彼らにとって人は、母馬の次に信頼できる者なのだ。
トキノミノルは一番信頼していた岩下を待っていたのだろうと私は思う。
享年4歳。この駿馬のDNAを受け継いだ子孫を見られないという事実は、残念でならない。
トキノミノルの死を無駄にしてはならない。彼の病状を記した記録はその後、破傷風に対する治療法の発展に大きく寄与した。この病で苦しむ馬がいなくなりますように…。どこまでも立派なサラブレッドである。
果たして今年、トキノミノルを超えるような駿馬は現れるだろうか?胸高鳴る春は、もうすぐやって来る。
さあ、クラシックへ挑む若き優駿達よ。今年はお前達の番だ。幻を超え、世界を変えてやれ。