武将と馬の逸話を大調査!?【後編】

2022/08/10

カテゴリ:馬のはなし / 人のはなし / Pacallaオリジナル

 

14人の武将と馬の逸話をお届けする今回の企画。前編では平清盛、源頼朝、源義経、武田信玄、山内一豊、加藤清正、島津義弘と馬にまつわる逸話をご紹介しました。さて、後編で登場するのは、織田信長、明智秀満、豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、伊達政宗、徳川綱吉の7人と馬に関するエピソードです。

 

※この記事に掲載した逸話には諸説あるものが多く、史実とは異なる場合がございます。エンタメとしてお楽しみいただければ幸いです。

 

織田信長と白石鹿毛・小雲雀(しろいしかげ・こひばり)

 

作画・狩野元秀(1551〜1601年), Public domain, via Wikimedia Commons

 

天下統一事業を進め、明智光秀の謀反によって本能寺の変で自害した織田信長。信長は馬と鷹が好きだったことで有名です。馬術の訓練は若い頃から欠かさず、安土城や岐阜城には馬場も作りました。そんなわけで大名たちは信長のご機嫌をとるべく、多くの馬と鷹を献上していました。なかでも信長の愛馬であった白石鹿毛は伊達家から贈られた奥州一といわれる名馬でした。過去には、これにあやかってかシロイシカゲと名付けられた競走馬も。

また、信長が自身の軍事力を示すために行ったといわれる「馬ぞろえ」というパレード(のようなもの)がありますが、信長が自分の馬を自慢したかったからやっていたんじゃないの…なんて声もあるようです。そういわれる所以は、1581年に行われた京都御馬揃えに信長が自身の所有馬「鬼葦毛」「小鹿毛」「大鹿毛」「遠江鹿毛」「河原毛」「小雲雀」を参加させていたからです。信長がもし現代に生きていたらバイクや車をたくさん持って自慢していそうですね。

そんな信長ですが、宣教師フロイスが織田信長の安土城に招待されたときの記録などによれば、厩舎はとても立派で清潔、馬は大切に飼われていたと書かれています。また、私たちの思い浮かべる馬小屋とは少し違い、厩舎の中には客間があって応接室の役割があったそうです。

 

明智秀満と大鹿毛(おおかげ)

 

明智秀満と大鹿毛(おおかげ)

Utagawa Yoshiiku, Public domain, via Wikimedia Commons

 

次にご紹介するのは、本能寺の変で織田信長を追い込み、わずか10日あまりの天下を取った明智光秀…ではなく、その家臣であった明智秀満(大河ドラマ『麒麟がくる』では間宮祥太朗さんが演じていた。通称、左馬助)の愛馬です。

秀満は光秀が最初に織田信長討伐を相談した人物ともいわれており、本能寺の変では先鋒となって襲撃しました。その後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との山崎の戦いで明智軍が破れますが、そのとき安土城を守っていた秀満は愛馬・大鹿毛に乗って主君である光秀がいる阪本城に向かいました。ところが、大津で羽柴軍に囲まれてしまい大ピンチに。しかし、何を思ったか秀満は大鹿毛に乗ったまま、琵琶湖を渡り切ったというんです! この逸話は「明智佐馬助の湖水渡り」といわれ、伝説となっています。

なかなか信憑性の低そうな話ではありますが、『絵本太閤記. 上』によると秀満がたどり着いたのは唐崎の浜。あくまでもGoogleMap上で見た感じですが、唐崎の浜から対岸までは3km弱くらい距離がありそう…。でも、馬は意外と泳ぎが得意なので、もしかするともしかするかも…?!(希望的観測)。うーん、あとは、重い甲冑を着た人間が力尽きずにいられるか…? 等が問題といったところでしょうか。

 

豊臣秀吉と奥州驪・内記黒(おうしゅうぐろ・ないきぐろ)

 

豊臣秀吉と奥州驪・内記黒(おうしゅうぐろ・ないきぐろ)

作画・狩野 光信(1565–1608), Public domain, via Wikimedia Commons

 

織田信長に仕え、その後を継いで天下統一を行った豊臣秀吉。美濃国に出兵するときに信長から馬に乗ってよいといわれたそうです。しかし農民出身の秀吉は馬を持っていなかったので、親戚に馬を貸してほしい!!と頼み込むなど、馬1頭を用意するのにも大変苦労をしたんだとか。

そんな秀吉が出世を重ねていくのは皆さんもご存知の通りかと思いますが、本能寺の変の後、中国大返し(※)のときには名馬といわれる馬に乗るようになっていました。秀吉の愛馬は真っ黒な馬体の奥州馬だったため奥州驪と呼ばれました。『常山紀談』には「秀吉は奥州驪という名馬に乗り、雑卒にまじり、吉井川を渡り片上を過ぎ、宇根に馳せ著けたれば馬疲れたり」といった記述があり、短期間でかなりの長距離(約25里の道のり)を奥州驪に乗って移動したとされています。

また秀吉は内記黒という芦毛を長曾我部元親に与えています。『土佐物語』によると、戸次川合戦のとき、元親は絶体絶命の状況で戦っていました。そのときに内記黒が駈けてきて、元親を乗せて敵中を突破し、命を救ったという逸話が残っています。

(※)本能寺の変で、織田信長が討たれたことを知った秀吉が率いる軍が、仇討ちのために山陽地方を駆け抜けて京都を目指した大移動のこと。

 

豊臣秀頼と太平楽(たいへいらく)

 

豊臣秀頼と太平楽(たいへいらく)

作者不明, Public domain, via Wikimedia Commons

 

秀吉の三男として生まれ、大坂夏の陣で命を落とした豊臣秀頼。秀頼には太平楽という愛馬がいました。秀頼は180cmを超える身長があり、その愛馬である太平楽も非常に大きな馬だったといわれています。秀頼は戦場に立つことなく亡くなったために、太平楽に乗って戦ったことはないようです。そういう意味では他の武将の逸話と比べると、やや物足りなさを感じてしまいますが、この人馬には死後360年以上のときを経てスポットライトが当たることになりました。

1980年に大阪城三ノ丸跡の発掘調査が行われ、その際に頭蓋骨が一つと、別の首のない2人分の骨、さらに馬の骨が1つ発見されました。当時の発掘現場の様子を見聞した木崎國嘉の著書『秀頼の首』によれば、頭蓋骨は歯の状態や体格などから秀頼のものではないかとされています(※)。馬は、骨のサイズ・太さ、眼窩が在来馬とは明らかに違う特徴を持っており、非常に大きい馬であったことから太平楽なのではないかといわれています。また人間の骨の下には貝が敷き詰められていて、馬の骨の下には青草を敷いた跡があったことから大切に葬られたことが想像できます。それは、秀頼にとって太平楽は特別な存在だったということを示しているのではないでしょうか。

秀頼の首とされた頭蓋骨は、秀頼が再興に尽くしたという清凉寺に首塚が作られそこに納められているそうです。もし馬の骨が太平楽のものなのだとしたら、その骨も秀頼のそばに置いてあげてほしいものですね。

 

徳川家康と白石・三日月(しらいし・みかづき)

 

徳川家康と白石・三日月(しらいし・みかづき)

Kanō Tan’yū, Public domain, via Wikimedia Commons

 

江戸幕府を開いた徳川家康は、「海道一の馬乗り」と呼ばれるほどの乗馬技術を持っていました。特によく知られている家康の愛馬といえば白石。名前から芦毛を想像してしまいますが、漆黒の馬だったそう! 競走馬でいうとクロフネの逆バージョンって感じでしょうか。白石については家康がいつ頃乗っていたかが不明で、知名度の割に情報がとても少ないのですが、家康の愛馬については白石のほかにも逸話があります。

静岡県の久能山東照宮では家康が晩年頃の愛馬を神馬として飼育していました。現在も厩舎などが残っており、白い木像の馬(※)が収められています。家康亡き後、神馬は夜になると家康公神廟のそばで休み、朝になると厩舎に戻っていました。ある朝、厩舎に戻らなかったため神廟を確認したところ、家康の横で眠ったままの姿で見つかったという逸話があります。

他にも、東京都の初音森神社には家康の愛馬・三日月とされる馬の銅像があります。関ケ原の戦いの際に、家康は初音森神社に戦勝祈願をしたそうです。家康と三日月はこの神社で水を飲んで一息ついて出発し、戦に勝ったといわれています。

(※)家康が白石に乗っていたのがいつ頃か不明なので、この神馬が白石ではないと言い切れないが、木像が白いことからその可能性は低そう…?

 

伊達政宗と五島(ごとう)

 

作画・土佐光貞 (1738 – 1806), Public domain, via Wikimedia Commons

 

出羽国と陸奥国の武将・戦国大名である伊達政宗。政宗が戦のたびに乗っていたとされるのが五島という馬です。後藤黒、五島黒とも呼ばれるこの馬は伊達氏の家臣である後藤信康が献上したといわれています。五島は黒い馬体が美しく、政宗はたいそう気に入って「馬首が向かうところ戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る」と言っていました。

五島にはこんな伝承があります。馬は人間より早く歳をとるため、1614年の大坂冬の陣の頃には五島は老齢になっていました。政宗は厩舎に五島を残して出陣することにします。すると五島は、自分はもう政宗の役に立てないと悲しみ、崖から身を投げたというのです。あくまでも伝承ではありますが、その崖下は蠣崎といわれる場所で、そこに政宗は五島を手厚く葬り、馬上蠣崎神社を建てて五島を馬の訓練場(追廻馬場)の守護としました。その後、明治に入ると日本軍によって、片平町の良覚院跡に場所を移され、元の場所には小さな祠が残される形となりました。

 

徳川綱吉と生類憐みの令における馬

 

徳川綱吉と生類憐みの令における馬

Tosa Mitsuoki, Public domain, via Wikimedia Commons

 

最後に紹介するのは生類憐みの令を発令した徳川綱吉です。ここまでご紹介した武将と馬の逸話については、その武将の愛馬とのエピソードを中心にお話してきましたが、綱吉については他の武将のような特定の馬とのエピソードはあまり有名ではないようです。ですが、生類憐みの令では犬や猫だけでなく、綱吉は馬についても拵馬禁止令、捨馬禁止令、首毛ふり禁止令(※)などたくさんの法令を作っています。

この当時、江戸では馬の見た目をよくすることや歩調の華麗さなどを重視する傾向があり、馬の脚の筋を切って形を整えるといったこと(=拵馬)が頻繁に行われていたそうです。これを禁じたのが拵馬禁止令です。もちろんこれは、馬に苦痛を与える行為であることが大きな理由ではありますが、拵馬は実用に不向きですぐにくたびれてしまうため、幕府としては頑丈な馬が欲しいといったことも理由にあったそうです。「馬を愛護する=馬を活用しない」のではなく、綱吉が実用性なども考えていたのは意外ですね!

また、生類憐みの令は民衆を苦しめる悪法としてのイメージが強いですが、綱吉の死後すべてが撤回されたわけではなく、捨馬禁止令のほか真っ当な法令については、その多くが引き継がれており、生類憐みの令は現在再評価されているそうです。

(※)馬のたてがみを焼く行為を禁じた法令

◆◆◆

武将と馬の逸話、後編はいかがでしたか? 今回ご紹介した以外にも馬とのエピソードを持っている武将はたくさんいるはずです。ぜひ、ご自身でも調べてみてくださいね!

 


<参考文献/参考サイト>

秋田魁新報社 電子版(2019年11月公開記事/2022年7月閲覧)

・「馬」が動かした日本史(蒲池明弘 著/文藝春秋/2021年発行)

・馬たちの33章(早坂昇治 著/緑書房/1996年発行)

・馬と人の江戸時代(兼平賢治 著/吉川弘文館/2015年発行)

・絵本太閤記. 上(岡田玉山 著/成文社/明治19年発行)

久能山東照宮 公式ホームページ(2022年7月閲覧)

高知県公式ホームページ(2022年7月閲覧)

滋賀県公式ホームページ (2022年7月閲覧)

・日本在来馬と西洋馬 : 獣医療の進展と日欧獣医学交流史(小佐々学 著/日本獣医師会/2011年発行)

本の文化入口マガジン warakuweb(2020年2月公開記事/2022年7月閲覧)

宮城県神社庁 公式ホームページ(2022年7月閲覧)

 

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