武将と馬の逸話を大調査!?【前編】

2022/07/29

カテゴリ:馬のはなし / 人のはなし / Pacallaオリジナル

 

皆さん、時代劇はお好きですか? もしくは好きな武将はいらっしゃいますか? 馬が好きだと、大河ドラマを見ていてもついつい馬に目がいっちゃって困りますよね~!というわけで、今回は14人の武将と馬たちの逸話をお届けしたいと思います。まず前編では平清盛、源頼朝、源義経、武田信玄、山内一豊、加藤清正、島津義弘と馬のエピソードをご紹介!

※この記事に掲載したエピソードには諸説あるものが多く、史実とは異なる場合がございます。
エンタメとしてお楽しみいただければ幸いです。

 

平清盛と望月(もちづき)

 

作画・藤原豪信, Public domain, via Wikimedia Commons

保元・平治の乱で活躍し、武士としては初めて太政大臣になった平清盛。そんな彼の愛馬は望月という馬です。『平家物語』によれば、望月は相模国の武将である大庭景親が平清盛に贈った馬で、関東八カ国でいちばんの名馬といわれていました。立派な黒い馬体で、額には曲星(月型の白い毛)を持っていたことから望月と名づけられたそう。

しかしある夜、ネズミが望月の尾に一晩で巣を作ってしまいます。このことが、陰陽頭の安倍泰親によって「ネズミのような小さな生き物が、馬のように大きな動物に取り付いて巣を作るというのは、世の中の傾勢が変わる異変、極めて不吉」とされてしまったそう。せっかくの名馬なのになんだか悲しいエピソード。その後も清盛が望月を大切にしたことを祈ります…。

 

源頼朝と生食・麿墨(いけづき・するすみ)

 

作画・藤原豪信, Public domain, via Wikimedia Commons

鎌倉幕府を開いた源頼朝にまつわる有名な馬といえば生食と麿墨。『東奥馬誌』によれば、この2頭は南部馬だったそう。また『平家物語』には、宇治川の先陣争いに出陣するにあたり、頼朝に仕えていた佐々木四郎高綱と梶原源太景季が、頼朝からそれぞれ生食と磨墨を貰ったと書かれています。当初、景季が生食を欲しがっていたそうですが、生食は頼朝のお気に入りだったため磨墨を与えられました。でもまあ、お気に入りなら仕方がないよね…と思うところですが、なんと頼朝は後から来た高綱には生食を与えたらしいのです。それが理由で二人はバッチバチに対抗意識を燃やすことになりました。

なお、磨墨は真っ黒の毛色からこの名前がつきましたが、生食は生き物なら何でも噛みつく獰猛さから名前がついたそう…。なんだか草食動物っぽさ皆無の名前ですね。ちなみに生食は池月と書かれたり、月毛だったといわれたりしますが、平家物語には生食という漢字で、毛色は黒栗毛と書かれています。

 

源義経と太夫黒(たゆうぐろ)

 

作画不明, Public domain, via Wikimedia Commons

源頼朝の弟で、壇ノ浦の戦いにおいて最大の功労者であった源義経。頼朝と対立したことにより悲運の最期を遂げたことも有名ですね。義経の馬にまつわる伝説といえば、一の谷の戦いの際に、鵯越(ひよどりごえ)の断崖絶壁を馬で駆け下りた話をご存知の方も多いはず! この時に義経が乗っていた馬が太夫黒だといわれています。太夫黒は体高130㎝の黒い馬(※1)で、当時としては大型の南部馬だったようです。また、太夫黒はもとの名を薄墨(うすずみ)といったそう。

頼朝の挙兵を知った義経が平泉から鎌倉へと出発する際に藤原秀衡から贈られたという話や義経が新潟県の太夫浜を通った際に、当地の安古左衛門の乗馬であった太夫黒が義経についていき、義経の馬になったという伝承などさまざまな説(※2)があるようです。また太夫黒ゆかりの地では、現在も非常に愛されています。2021年には太夫黒が育ったとされる岩手県一関市千厩町で着ぐるみマスコット「たゆうぐろの大(たい)ちゃん」が制作されたり、岩手競馬(水沢競馬場)では「太夫黒特別」というレースが開催されたりしているんですよ!

※1 ちなみに現在のサラブレッドの体高は約160cm。
※2 太夫黒を義経に贈ったのは後白河法皇と記載されている資料もあります。

 

武田信玄と黒雲(くろくも)

 

作画不明, Public domain, via Wikimedia Commons

上杉謙信と戦った川中島の合戦があまりにも有名な武田信玄。その愛馬は黒雲という当時最大級の馬だったとされています。信玄自身は、どうやら父・武田信虎が所有していた鬼鹿毛(おにかげ)という馬が欲しいと思っていたようなのですが、その願いは叶わず…黒雲が愛馬となりました。黒雲は非常に気性の荒い馬で、信玄以外は乗りこなすことができず、信玄の影武者も乗ることができなかったと伝わっています。(ちなみに黒澤明監督の映画『影武者』では、信玄が亡くなった後に影武者が調子に乗って、黒雲に騎乗したところ落馬してしまい、本物の信玄ではないことがバレてしまうシーンも!)

また、平成元年には武田氏館跡(山梨県甲府市)から、当時の馬の完全な骨格が発見されています。黒雲ではないにせよ、埋葬方法や馬の体格から判断すると、この馬は大将クラスの人物を乗せた馬であった可能性が非常に高いそうです。歯の状態などからも良い餌をもらっていたことがわかっており、とても大事にされていたのでは?と思われます。

 

山内一豊と鏡栗毛(かがみくりげ)

 

作画不明, Public domain, via Wikimedia Commons

織田信長の家臣だった木下秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、姉川の戦いなどで活躍した山内一豊。織田信長は自分の軍の騎馬武者を整列させ、訓練や行進をさせる「馬ぞろえ」によって、敵に軍事力を示すことを好んだといわれます。当時、貧しい武士のひとりだった一豊は、馬ぞろえで目を引くような、立派な馬を買う資金がありませんでした。すると妻の千代は嫁入りの持参金「黄金10両」を一豊に渡し、これで他の武士に負けない馬を買うように言ったのだそうです。このとき、一豊が買った馬が名馬・鏡栗毛です。この時代、一般的な馬の価格が黄金1両、かなりランクの高い馬でも5両で買えたそうですから、鏡栗毛は相当の馬だったことでしょう!

また、この馬は馬喰が名馬を売ろうと信長の領地に連れて来たのですが、あまりの金額に買い手がつかず、諦めて帰ろうとしたところを山内一豊が買ったという経緯があったそう。馬ぞろえの際に、それを聞いた信長が「浪人の身でありながらよく買ってくれた。信長の家も恥をかかなくて済んだ」と喜んで、一豊の後の出世につながったといわれています。

 

加藤清正と帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)

 

作画不明, Public domain, via Wikimedia Commons

幼い頃から豊臣秀吉のもとに仕え、天下統一に貢献した加藤清正。非常に大柄な男だったといわれている清正ですが、その愛馬も相当な大きさで、さらには暴れ馬であったようです。6尺3寸、現在でいうと1.9mもあったといわれている(※1)その馬は、梵天(※2)とともに仏法を守護する神さま『帝釈天』から帝釈栗毛と名づけられたそう。

加藤清正が肥後の國守として江戸に参向した際には、帝釈栗毛に乗って城下町を徘徊したといわれており、そのインパクトはかなり大きかったようです。江戸の市民たちは「江戸のもがりにさわりはすると よけて通しゃれ帝釈栗毛(=ならず者に喧嘩を売ったとしても、帝釈栗毛には喧嘩を売ってはいけない)」と謳ったそう。

清正を祀る熊本県の肥後本妙寺の浄池廟には、現在も帝釈栗毛を祀っているお堂があり、その中には馬の木像が置かれています。このことからも、加藤清正にとって帝釈栗毛が特別な馬であったことがうかがえますね!

※1 梵天(ぼんてん):インドの古代宗教で、世界の創造主として尊崇された神様のこと
※2 体高と思われるが、おそらく誇張されている。

 

島津義弘と膝突栗毛(ひざつきくりげ)

 

作画不明, Public domain, via Wikimedia Commons

生涯で52回の合戦に出陣し、数々の功績を遺した戦国時代屈指の武将である島津義弘。島津義弘には竜白という愛馬がいました。なんとなく竜白という名前から、強そう牡馬を想像してしまうのですが竜白は牝馬だったそう!

木崎原の戦いにおいて、敵将との一騎打ちの際に義弘が鎗で刺されそうだったところ、膝を折り曲げて相手をかわし、危機を回避したことから膝突栗毛と呼ばれるようになりました。膝突栗毛はその後も、義弘の愛馬として20回以上も戦地に赴いたといわれています。

義弘は飯野・栗野・帖佐と移っても、この馬を手放すことはありませんでした。晩年も大切にされた膝突栗毛は人間の年齢にして83歳まで長生きし、別名「長寿院栗毛」とも呼ばれています。現在も鹿児島県姶良市帖佐にある亀仙院墓地には膝突栗毛のお墓があり、そばには馬の飼育係であり、かつては義弘の家臣として文禄慶長の役や関ヶ原の戦いに従軍し義弘のそばを守った橋口対馬とその妻のお墓もあるんだそう。義弘は愛馬の近くに信頼できる家臣を置いて、安心したかったのかもしれませんね。

 

◆◆◆

いかがでしたか? 武将と馬の意外なエピソードは見つかったでしょうか?
後編もまた、7名の武将と馬にまつわる逸話をお届けする予定です。お楽しみに!

 


 

 

<参考文献/参考サイト>

・逸話文庫:通俗教育・武士の巻(通俗教育研究会 編/大倉書店/明治44年発行)

岩手競馬公式サイト(2022年7月閲覧)

岩手の馬と人の文化を伝えるサイト 馬と人〔正式版〕 1180年(治承4年) 源義経の愛馬「太夫黒(たゆうぐろ)」(2012年公開記事・2022年7月閲覧)

・「馬」が動かした日本史(蒲池明弘 著/文藝春秋/2021年発行)

・馬たちの33章(早坂昇治 著/緑書房/1996年発行)

・馬と人の江戸時代(兼平賢治 著/吉川弘文館/2015年発行)

北区郷土博物館 北区お宝ものがたり(発行年不明/2022年7月閲覧)

・(新潟市)北区役所だより 第273号(2018年8月19日発行)

・(新潟市)北区役所だより 第300号(2019年10月6日発行)

競馬ブックコラム 太夫黒の最期(宇土秀顕 著/2019年公開記事/2022年7月閲覧)

・国の礎(軍事教育研究会 編/聚文館/昭和7年発行)

・上代の鼠の諸相:『古事記』で大国主を災難から救うのが母鼠である理由(北海道教育大学リポジトリ/中島和歌子/2013年発行)

世界遺産 平泉ゆかりマップ 「太夫黒」生誕の地(源義経公の愛馬)(2022年7月閲覧)

・都道府県展望 2014年 no.664 『日本の歴史を創った馬たち』(全国知事会(財)都道府県会館発行/2014年発行)

学ぶ 教える.com 平家物語(原文・現代語訳)(2022年7月閲覧)

ベネッセ教育情報サイト 日本の歴史特集「源義経の生い立ちと残した偉業とは?どうして兄頼朝との確執が生まれた?」(2022年7月閲覧)

 

 

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