樫の木の下には2頭のお馬さん
2018/05/18
カテゴリ:馬のはなし / Pacallaオリジナル
昔々、イギリスに一人の伯爵が暮らしていた。
その伯爵は貴族、政治家という顔の他に、競走馬の生産者兼馬主、いわゆるオーナーブリーダーとしての顔も持つ、大層な競馬好きな方だった。
競馬ファンという人々は、名付けの親になることに強い憧れを抱く性質を持っている。馬の名前、レースの名前。自分が考えたそれが、もしも競馬史の1ページに刻まれるものなら、曽孫の代まで語り継ぎたくなる自慢になるだろう。
この伯爵もそんな競馬ファンの一面を持っていた。
「次に新しく創設するレースの名称は、僕の名前か君の名前を付けよう。」
同じく競馬が好きな友人に対し、このような発案をした伯爵。紳士たるもの、譲り合いの精神を確と持っておかなくてはならない。
「面白いアイディアだね。じゃあ発案者である君の名前を付けたまえ。」
となるはずだが、この二人は命名権を互いに譲らなかった。
コイントスという、如何にも賭け好きなイギリス人らしいやり方で対決した結果、発案者の伯爵の名が付けられることになった。しかし、そのレースの第1回優勝馬は、コイントスに敗れた友人の愛馬だった。というのは、何とも喜劇的なエピソードである。
時間はこのレースが誕生する前に遡る。
とある公爵の娘と結婚したこの伯爵は、妻のために別荘を建てた。その別荘には、立派な樫の木が植わっていた。夫人はこの木を甚く気に入り、夫の「新しく馬のレースを創設するんだけど、名前は何がいいかな?」という相談に対して、
「この樫の木。樫の名前を付けて。」
と、答えた。
樫。英訳するとオークである。3歳牝馬の女王を決めるオークスというレースは、こうして誕生したらしい。
世の中の競馬パパ達が、皆この伯爵のような人物なら、カミさんに文句を言われず、気兼ね無く競馬を愉しめるが、無慈悲にテラ銭を毟り取る競馬会には、なかなか勝てないのが現状だ。
万馬券を当てた際は、次のレースではなく、お家の人へのプレゼントを考えて欲しい。
…と、競馬場の隅で新聞を敷布団、外れ馬券を掛け布団にして、朝から夕方までクダを巻いている人生スリーアウト、ゲームセット、コールド負け、一回戦敗退な私は思う。
話をオークスに戻そう。
先に触れた通り、オークスは新婚夫妻の記念で創設された。3年目から浮気が許される。なんて理論が存在しているが、新婚時代はピュアでなくてはならない。浮気なんて以ての外。愛するのはただ一人の頼れる夫であり、可愛い妻なのだ。
しかし、2010年の第71回オークスは違った。
その日は、シトシトと雨が降っていた。人気を集めたのは、2歳女王に次いで桜の女王となったアパパネ。鞍上はデビュー来から相思相愛な関係にある蛯名正義。
以下、ショウリュウムーン、オウケンサクラが続いた。樫の木は桜木から考える。という、古より伝わる格言通りの下馬表である。
私はアパパネが好きで、デビューからずっと買い続けていた。
しかし、このオークスでは「雨降り馬場ならアグネスワルツが来るに違いない。」と、馬券的観点に誘惑されてしまった。この時点で、私はかの伯爵のような紳士的な男になれないことが確定した。全く、我ながら情けない限りだ。
銭の誘惑に取り憑かれ、ホイホイと平気で浮気するカス野郎(私)のことなんて気にもせず、アパパネは力強く馬場を駆けた。
俺のワルツ、俺のワルツ!と売れない歌手みたいに叫ぶカス野郎の腐った声を「貴女だけが主役じゃない!」というキリッとした淑女の声が搔き消した。
横山典弘に導かれ外から飛んできたサンテミリオンだ。
桜を愛でられなかった彼女は、その悔しさココで晴らさん!と、乙女の情熱に火を灯し、アパパネに迫る。
ゴール前、2頭は完全に並んだ。肉眼では判別不可能なくらい、ピタリと鼻面を合わせて、一緒にゴール板を駆け抜けた。
人間の目では分からなくても、機械の目ならアッサリとすぐに事実だけを教えてくれる。ところが、なかなかどうして着順掲示板が埋まらない。ずーっと写真の文字が点滅していた。
激闘から約15分後。着順掲示板から2着を示す欄が消え、着差のところに同着という2文字が点灯した。
JRAのGI競走で同着は史上初。当然、勝利騎手インタビューも、横山と蛯名の2人で行われ、関東を牽引し続ける彼らは、おめでとう!と叫び、互いを称えあった。実に不思議で面白いインタビューだった。
馬場に目をやると、優勝レイと優勝馬服を仲良く分けたアパパネとサンテミリオンがいた。
レイはアパパネ、馬服はサンテミリオン。口を取る世話役のホースマン達も、笑いながら互いを称えていた。馬券を外したことも忘れて、ほっこりしたことを覚えている。
どちらをオークス馬として嫁馬にするか?
空の上で馬の神さんは悩んだのだろう。コイントス…ジャンケン…あみだくじ…。色んな手法がグルグルと巡ったけど、決められなかった。
決められない…どっちも良い馬なんだよなぁ!
馬の神よ。貴公も私と同じく、ダービーさんにはなれない。
しかし、後世にまで語り継ぎたくなる良い競馬を見せてもらったことについては、下々の競馬民である者として、最大級の感謝の意を表する。