結晶 -世界のホースマンへ-
2018/10/20
カテゴリ:馬のはなし / Pacallaオリジナル
滅多なことがない限り、レースの勝ち馬となれるのは1頭だけである。
今日の競馬だと、18頭中に1頭。なんだ1/18なら、大したことではないじゃないか。と思うが、競馬場に辿り着くまでを加算すると、その難易度は途方も無いレベルとなる。サラブレッドとして、競走馬として生きることを考えれば、今自分が抱えている悩みや問題はイージーなモノなのかも知れない。
その過酷な状況下で一度も負けずにいられるというのは、奇跡に等しいことだ。能力はもちろん、目に見えない運といった要素も全て味方につけなければ、これは成し得ないだろう。
1984年の牡馬クラシック戦線に、その馬がいた。岡部幸雄を背に戦勝の無敗で三冠を決めたその馬、シンボリルドルフを人々は皇帝と称した。
競馬を覚えたての頃、ルドルフを知って嫉妬にも似た羨望感を抱いたことを覚えている。無敗の三冠馬誕生を目撃した人々が羨ましくて仕方なかった。
そんな昔日の眩い光景を想像しながら、第回菊花賞の馬柱に目を落とした2005年10月22日。目に映った馬は4枠7番。成績欄には綺麗に1が並び、予想印もこれまた綺麗に◎が連なっていた。
私達の時代の英雄が、皇帝に肩を並べる。
英雄、ディープインパクトが偉業を達成する瞬間を想像した時、憑き物のように取り憑いていたルドルフの羨望感は消え去り、手に持つ赤ペンで力強く”三冠馬!”と名の下に書き殴った。
2005年10月23日、京都競馬場。
歴史の目撃者にならんとする13万人の競馬ファンの熱気が古都の競馬場を包み込んだ。主であり、普段は優雅に池に漂うスワンも、ただならぬ雰囲気を察していたに違いない。
ディープインパクトは競馬場に来ても1だった。単勝1.0倍。ファンは損得勘定を無視して、最大級の支持を示した。世界の競馬界が羨む馬券というアイテムも、ディープの前では脇役に過ぎなかったのである。
15時40分。
高らかにファンファーレが奏でられ、最後の青春舞台に夢を見る18頭の優駿がゲートに揃った。
刹那の静寂を打ち破る金属音が鳴り響いたと同時に飛び出したのは、シャドウゲイト。次いでアドマイヤジャパンが続き、各馬1回目の坂越えに挑む。
ディープは中団やや後方。武と手綱で意思を通わせ、ジックリと進む構えだ。
ところが坂を越え、1周目4角を回った時、ディープは先頭に立とうとした。
坂を越えればゴール。聡明なこの馬は、京都のレースを知っていたのだろう。しかし、手綱を握る男に動揺は無かった。
ここじゃない。
早々とゴールへ飛び込もうとする相棒を冷静に諌め、錯誤に気付かせた。この辺りに騎手武豊の凄味を垣間見ることができる。馬を操る技術だけではなく、騎手としての精神面も超人的。そんな騎手を間近で見られる我々、日本の競馬ファンは幸せ者だと思う。
もしも、私が彼の立場なら頭の中が真っ白になり、顔面蒼白のままディープに主導権を奪われたことだろう。
自身の勘違いに気がついてからのディープは、まさしく英雄だった。前を見据え、その時を堂々と待つ。その走りに微塵の迷いもなかった。
2度目の坂越え。俄かに馬場が騒がしくなってきた頃、ディープは離陸の準備を開始する。進路は外。一気に前方を丸呑みする決意を固めた英雄の姿に、ファンはただひたすら熱狂した。
最後の直線。弥生の悔しさを菊で晴らさんとするアドマイヤジャパンが内から出し抜く。横山典弘の左ムチに応え、栗色のサンデーサイレンス産駒が主役の座を奪おうとした時。
私達は、また空を飛ぶサラブレッドを見た。
時空なんてのは目に見えない概念である。故に、進んでいるのか、それとも止まっているのか、視覚的にも感覚的にも判別出来ない。
ただ、この時は分かった。ディープインパクトと武豊を除き、世界の時空は止まっていたと。
体感した時空の概念が霧散し、現実に戻り馬場を見ると、3馬身差をつけてゴールに飛び込んだ英雄がいた。
史上2頭目、無敗の三冠馬誕生。
もう2度と見られないと思われた光景が、そこにある。この年、幸運にも競馬が好きだった者は、一生に一度なれるかどうか分からない歴史の証人という者になった。
歓喜の叫びを上げる者、あまりの強さに唖然とする者、感動に打ち拉がれて涙を流す者…。
様々な表情を浮かべる証人達に見守られたディープインパクトは、背の上で3本の指を誇らしげに掲げる武と一緒に淀の夕陽に照らされていた。
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ…。近いうちに、このいずれかの国へ競馬を見に行くプランを考えている。まだパスポートも取ってない全く白紙の旅だけど、一つだけ決定していることがある。
彼の地の国のファンに、我が英雄を自慢する。競馬場で友を作って、レースが終わった後、酒場あたりで延々とディープインパクトを語り、最後に馬場鉄志の言葉を叫ぶつもりだ。
世界のホースマンよ見てくれ。これが日本近代競馬の結晶だ!