遅咲きの桜

2017/11/02

カテゴリ:馬のはなし / Pacallaオリジナル

 

競馬が人生の比喩ではない。人生が競馬の比喩なのだ。

と、寺山修司は言った。寺山に言わせると前者はレースが主体、後者は私たちに主体があるという。
彼の言葉になぞらえ、今日までの我が人生を鑑みると、
6〜7レース付近で催される平場の条件戦を、ダラダラ走っている状態だと思う。

周りの同期はとっくの昔にオープン入り、つまり出世や結婚といった「人生が成功した」と誇れるプロセスを歩んでいるのに対し、
テメェはいまだに条件戦止まり。
有り体に言えば、駄目人間という有難くないレッテルが貼られている状態だ。

普通ならこの現実と向き合い、何クソ!!と、発奮しなくてはならないのだけど、
今のところ昇級のメドすら立っていない。
いや…もう面倒臭いから、メドを立てる気すらない。と言った方が正しいか?

 

この様な体たらくだから、私は晩成馬が好きだ。
クラシックという青春の大舞台を走る同期の裏で、静かに着々と牙を研ぎ、
古馬になって大輪の花を咲かす様な駿馬に、底無しの愛と大いなる憧れを抱いてしまう。

 

サクラローレルという馬は、幾度の不運にもめげず、満開の桜花を咲かせた晩成馬だった。
球節炎でダービーを棒に振った青春時代、古馬になってから金杯を制すも、
両前脚深管骨折という重症に襲われ、一時期は安楽死という絶望を彷徨った。

あと一歩順調なら大舞台に立てた。
馬券でも何でもそうだが、ギリギリの悔しさというのは精神的に大きなダメージを受ける。

もしも、駄目人間の私がローレルの立場だったら、不貞腐れて、無気力人間になっていただろう。
しかし、ローレルを育てるホースマン達は全く諦めなかった。
どうにかして、この馬にタイトルを…。と願い、絶望の淵からの生還を目指した。

その決意が天に通じ、桜木に花が綻んだ。

 

1996年春。
中山記念で約一年振りの勝利を収め、迎えた第113回天皇賞春。
夢にまで見た大舞台に立ったローレルは、同期の三冠馬、一歳年下の年度代表馬を置き去りにし、
春晴れの淀に満開の桜を咲かせた。
空の青、芝生の緑、サクラの勝負服、栃栗毛のサラブレッドというこの時の光景は、いまだに最も美しい光景として記憶に焼き付いている。

一度花開いた晩成馬は、それまでの暗澹たる時間を掻き消す様に栄光へ突き進む。
天皇賞春、そして暮れの有馬記念で二度目の桜を咲かせたローレルは、1996年の年度代表馬にまで登り詰めた。
明日、死ぬかも知れない運命に直面していた馬が、年度代表馬に…。
こういう劇的な一面があるから競馬は分からない。だから面白いのだと思う。

競馬が面白いということは、人生も面白いということになる。

同期の”成功者”達が何を言おうが、ハナクソを投げ付けて相手にしないが、ローレルに背中を押されては敵わない。
いつになるか分からない。けれども、どこかで
サクラローレルの様に、パーッと花を咲かせてやろうと思う。

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