Pacalla、血統評論家と牧場をつないでみた!(前編)

2018/06/06

カテゴリ:たのしい広告

読者の皆さん、こんにちは。Pacalla編集部です!

実は先日、競馬道OnLineさんから、出版している『パーフェクト種牡馬辞典』をPacallaで宣伝したい…!という嬉しいご連絡をいただきました。
続々と舞い込む(?)ご依頼に張り切る編集部でございます。

そんなわけで今回は、Pacallaでもおなじみ、そして『パーフェクト種牡馬辞典』の監修者でもある血統評論家の望田潤さんと二風谷ファーム専務の稲原稔久さんに協力していただくことに! 

Pacallaが「ファンと牧場をつなぐ」をテーマに掲げているのは、(きっと)皆さんご存知かと思いますが、今回は『血統評論家』と『牧場』をつなぐ対談企画をお届けします。

》Pacalla、血統評論家と牧場をつないでみた!(後編)はこちら!

まず前編では、対談企画に先がけて血統評論家・望田潤さんの他ではあまり明かされていないバックグラウンドについてインタビュー。

さぁ、知られざる望田潤ヒストリーにさっそく迫っていきましょう!

 

一般企業に内定も。馬業界に足を踏み入れた経緯とは…?

血統評論家 望田潤

 

―さっそくですが、望田さんは現在、北海道にお住まいとのことですが、生まれはどちらなんでしょうか?

京都です。
京都と大阪の境にある町で生まれ育ちました。高校、大学までずっと京都。
普通に大学も出て、一般企業に就職も決まっていたんですが、でも、この時すでに競馬が好きだったので、やっぱり馬の仕事がしたいなと思いまして。

―では、一般企業への就職を辞退し、馬の世界へ?

それがね、内定承諾もしたあとだったので。
単純にやっぱりやめますっていうのは大学と企業の関係も悪くなるし、申し訳ないと。
仕方なく親に頭を下げて大学を留年するという形をとりました。
物理的に就職ができない状況です…というのが一番角が立たないということでね。
わざと1単位落とそうと…。でも蓋を開けてみたら2単位落としていて(笑)。
あれっ?って。実力でも落としていたっていう…。

―企業と大学の関係まで考慮するところは望田さんの人柄が表れているエピソードですね。
馬の世界といっても色々ありますが、最初は何を?

まあ競馬の仕事といっても色々ありますからね。
僕の場合は、父親の知り合いが関西テレビにいらっしゃって、そのツテで競馬実況をされていた杉本清アナウンサーに会わせていただく機会があって。

―あの実況の神様の…!

そうそう(笑)。
あの渋い声で、トラックマンとかマスコミよりも、厩務員とか調教師とか、そっち方面を目指してみたら?と言われて。
じゃあそっちの道に進むにはどうしたらいいんですかと聞きまして、そこで初めて競馬学校の存在を知るというね。
失礼な話ですが、そんな基本的なことすら知らずに杉本さんに話を聞きにいってたんですよ(笑)。
で、競馬学校に行くためには牧場で実務経験を積んだほうがいいと。
それでまた「じゃあ僕、メジロ牧場に行きたいです!」って。

―当時のメジロ牧場さんていったら、たくさんの名馬を輩出してましたもんね。

そうですね。
自家生産の血統と卓越した育成技術で少数精鋭の中から毎年大物を出して、競馬好きな大学生からもリスペクトされてたほどですからね。メジロさんは人手が足りてたので、そこからの紹介で日高大洋牧場に就職しました。
競馬学校を受験するために牧場に入ったわけですけど、馬乗りがあんまりうまくならなかったのと、牧場の仕事が性に合っていたので、このまま牧場で働こうかなと思ってました。

血統評論家 望田潤

 

ー血統についてはいつ頃から勉強をはじめたんですか?

牧場にいる時から、ほぼ独学ですが血統については勉強していました。そのうちに現場のトップも、僕の血統の話にも耳を傾けてくれるようになって。じゃあ来年はこれにトニービンつけてみるか、とかね。
そうなるとやっぱり嬉しいじゃないですか。
それで、牧場にずっといようかなという気持ちが強くなっていきましたね。

―望田さんのお仕事を拝見していて、非常に生産者寄りの血統評論家さんだなと思っていたんですが、それは牧場での経験がベースにあるからなのかもしれませんね。

そうですね。血統に関するいろんな仕事をしていますが、配合を考えるのが一番面白いし、一頭でも多くの馬の配合に携わりたいと思っているので、生産者さんとのお仕事をもっと増やしていきたいと思ってるんですよ。

 

血統専門誌『競馬通信』との出会い

競馬通信
―ここまでの経緯を聞くかぎりでは、牧場の仕事がとても楽しそうですが、血統の仕事にシフトしようと思うのはいつ頃なんでしょうか?

牧場時代に『週刊競馬通信』っていう血統専門誌を読むようになったのが契機ですね。
通販だけのミニコミ誌みたいなもんなんですけど、5代血統表だらけの本で、知らないことや面白いことが山のように書いてあるんですよね。
特に笠雄二郎さんの配合論には衝撃を受けました。
それで『牧場で今後も働きたいという気持ちはあるんですけど、もっと本格的に血統の勉強をしたいです』と、日高大洋を離れることになりました。

一旦、地元の京都に帰ることにしたんですけど、帰る道すがら東京にあった競馬通信社の編集部に立ち寄って、「僕、ここで働きたいです!」と。

―牧場に就職された時もそうですけど、なかなか行動力のあるタイプですよね。

あまり深く考えずに流れにのっていくタイプなんですよ(笑)。
そのときは人手が足りてたので、しばらく京都でコンビニバイトをしながら待機することにしました。
半年ぐらい経ったころに呼ばれて、そこからは編集部で記事を書いたり、本をつくったりしていました。
そのうちに他の媒体でもちょこちょこ記事を書くようになりましたね。

―フリーランスになろうと考えたのはその頃ですか?

いろいろあって35歳くらいの時にフリーランスになりました。
フリーやったら、別に東京にいる必要もないしね。
前から北海道が好きだったので、札幌競馬場の近くに家を探して住みはじめました。もう長いこと北海道ですよ。

―フリーになってからはライター業がメインだったんですか?

そうですね。競馬通信社時代からの同僚や知り合いに仕事をもらうケースがほとんどでした。
フリーになってから自分で営業をしたことがほぼないんですよ。
そこは本当に恵まれているなと思います。

―望田さんの人望のたまものですね。

とにかく競馬の仕事がしたいなって学生の時に思って、そのままの流れでここまでやってきたってかんじです(笑)

 

近所のお兄ちゃんに連れられていった競馬場、血統への目覚め

血統評論家 望田潤

 

 

―そもそもの話なんですけど、競馬が好きになったのはどういったきっかけだったんですか?

高校生の時ですね。
近所のお兄さんに「天皇賞見に行こか?」って誘われて。
ついて行ったら面白くて。
そのあとはまぁテレビの競馬中継をちょくちょく見るようになって。

―その時、そのお兄さんに声をかけられなかったら、まったく競馬を通らない人生もあり得たってことですよね。

かもしれません。
大学でもたまたま競馬好きの友達ができたりして、そこにオグリキャップブームがドンときました。
それまではね、電車の中で競馬週刊誌を読むのが恥ずかしかったんですよ。
ブームのおかげでそれが平気になったのはよかった(笑)。

この頃はごくごく普通の競馬ファンで、血統についても新聞に載ってることを知っている程度でした。
春の天皇賞でひいきにしていたスダホークっていう馬が1番人気だったのに惨敗してね。
その時の2着が11番人気のメジロトーマスで。
なんでこの馬が急に2着にくるんや?と呆然と立ち尽くしていたら、横にいた見知らぬおじさんが「やっぱりメジロやねぇ…ステイヤー血統やねぇ」って呟いたんです。
ステイヤーって言葉さえも知らなくて、すぐに調べて。
なるほど長距離向きのスタミナがある血統なんやって。

―そこで血統へ目覚めるわけですね! Pacallaにとってもそのおじさんは恩人かもしれませんね。
まさか、このおじさんも隣の青年の人生を変えているとは思ってないでしょうね。

でしょうね(笑)。
それからすぐに、山野浩一さんの『血統辞典』を買いまして。
そこからはサラブレッドの血統を調べていくこと自体が面白くて仕方がないという感じでした。

―でも当時はインターネットもないし、調べるのも大変じゃないですか?

そうなんです。
だから、京都競馬場の広報室で資料を探したりしていました。
開催日しかやってなくて。だから朝イチで押しかけて、レースも見ずにずっと入り浸ってましたね。
今のGate-Jの資料室みたいな感じです。
コピーサービスもしてくれて。そこに笠さんの名著『サラブレッド配合史』もあったんです。

 

望田さん自身も研究のサラブレッドだった⁈

研究
―今までのお話からすると、家族に馬関係者がいたわけでも、競馬ファンがいたわけでもなく…馬の世界に入ったってことですよね。

そうですね。
でもね、親父はドイツ史の学者で、歴史オタクがそのまま教師になったような人です。
競馬に関わっていたわけではないですけど、コツコツ調べものをするとか、そういうのが好きなのは似たのかなぁと思いますよ。
分野は全く違いますけど。
親父は家にいるときは書斎にこもって本ばかり読んでました。
そのとき僕は二階で、やはり部屋にこもって一日中血統表を書いていましたね。

―なんだか、このあたりが望田さんのルーツな気がしますね。

性格についてはそうなのかもしれないですね。
馬も人間も、性質の遺伝と見た目の遺伝は複雑で。
僕、外見は母親にそっくりなんです。
競馬通信社に入ってからデスクワークで視力が急激に落ちて、ついに免許更新の際に眼鏡が必要になって、眼鏡屋で生まれて初めて眼鏡をかけて鏡を見たら、そこに母親が映っていてびっくりしました(笑)。

―血統評論家の望田さんご自身も、お父さんの性質とお母さんの見た目を受け継いでいるってことなんですね(笑)。
今日は、あまり普段は語られることのない望田さんの歴史を知ることができて、本当に楽しかったです。
血統評論家として、望田さんがなぜあんなにも生産者に寄り添っていらっしゃるのか、すごく納得ができたインタビューになりました。

後編では、そんな血統評論家・望田潤さんと、過去にはトウカイテイオー号、サイレンススズカ号、スズカフェニックス号等の歴史に残るG1ホースを育成してきた、二風谷ファームの専務、稲原稔久さんの対談をお届けいたします。
こうご期待ください!

 

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