優駿が結び付けた縁

2017/11/24

カテゴリ:馬のはなし / Pacallaオリジナル

 

オリンピック、サッカーのワールドカップ、野球のWBCなどの世界大会は、例えその競技に興味関心が無くても、つい熱くなってしまう。

我々が愛する競馬の世界大会といえば、1981年に創設されたジャパンカップだ。
先に触れた大会と違い、昨今のジャパンカップは日本馬絶対優位の風潮が強く、世界大会とは名ばかりの様なものになりつつあるが、やはりレース本番が近づくとワクワクする。
(ジャパンカップに限らず、どのレースでもだが…。)

しかし、ジャパンカップも創成期の頃は、海を渡り、遠路遥々やって来る世界のthoroughbredの強さばかりが目立ったレースだった。
アメリカ、イギリス、フランスといった今日でも強敵として聳え立つ国は勿論、イタリア、カナダ、アイルランドという偉大な名馬を産んだ国も、挙って日本へやって来て、私達の国のサラブレッドに、レベルの違いを見せつけた。

この参戦国の中にインドという国の名がある。
カレー屋が屋台を引いて来たのか?いやいや、オウンオピニオンという馬を擁し、第一回競走に挑んだのである。
13着に敗れた彼以降、インドからのジャパンカップ参戦はない。ゆえに、インドで競馬なんかやってんのか?という疑問が先に沸いてくるだろう。
やってます。カルカッタ、ハイデラバード、バンガロール、ムンバイ、マドラスの見事に美しい5つの競馬場で。
インドへご旅行の際は是非、訪れてやって下さい。(個人的にはカルカッタ競馬場に行きたい。スタンドが綺麗。)

そんなインドと日本競馬の間には、深い縁がある。

名門、尾形藤吉厩舎に所属し、1956年ダービー、1957年の天皇賞、有馬記念を制したハクチカラ。
国内で文句なしの実績を叩き出した彼は、海の向こうへ栄光を求めた。目指すはアメリカ。しかし、馬の海外遠征が日常として組み込まれている昨今の競馬シーンと違い、当時はまだまだ輸送のノウハウ等が確立されていなかった。
もしも、機内でハクチカラが暴れた場合、機長には射殺する権限が与えられていた。というエピソードが示す様に、当時は生きるか死ぬかの挑戦だった。

静かに機内の時間をやり過ごし、手綱を握る保田隆芳とアメリカに降り立ったハクチカラ。
“セントサイモンの悲劇”に襲われたイギリスを救い出したこの国で、彼らを待ち構えていたのは異世界だった。
日本最強馬を以ってしても、全く歯が立たない。海の向こうは、命懸けでやって来た日本馬にも容赦なかった。
ただ、立派な優駿である彼は、徐々に環境へ適応し始め、サンセットハンデキャップというレースで見せ場十分の4着に入った。
もしかしたら…。悲観が希望に少しずつ変わる。
モンキー乗りを会得した保田と別れ、迎えた1959年2月23日、サンタアニタで行われたワシントンバースデーハンデにハクチカラは挑んだ。人気は16頭中15番人気。誰からも相手にされなかった我々の国の最強馬は、ここで大仕事を成し遂げる。
当時世界賞金記録を保持していたラウンドテーブルを退け、逃げ切り勝ち。この勝利は、日本競馬史上初の海外重賞制覇となった。

日本の馬がラウンドテーブルを負かした!

命懸けで競馬に挑んだ一頭の日本馬と、日本人ホースマン達の名は、世界の競馬史に深く刻まれたのだった。

現役引退後、種牡馬となったハクチカラだったが、自身を彷彿とさせる産駒に恵まれず、種牡馬レースから脱落。優駿としてのプライドを傷付けられ、落ち込んだ彼は再び海を渡った。

ハクチカラが次に辿り着いた場所、それがインドだった。
日本では落第の印を押されたが、インドではクラシック優勝馬を送り出す名種牡馬の地位を築き上げた。
1979年8月26日、27歳で生涯を終えた日本の優駿に、インドの競馬界は立派なお墓を建立し、国を挙げて弔った。日印両国で英雄と讃えられる日本馬は、今でもハクチカラしかいない。

その2年後、インドからオウンオピニオンがやって来たのである。
悲しいかなオウンオピニオンは、今でも「史上最弱の遠征馬」と評されているが、言いたければ言えばいい。蔑みたければ、奈落の底まで蔑めばいい。
何をしようが、彼の後ろではハクチカラが手を叩いて喜んでいる。
英雄に背を押される勇者の前では、私達の評論などチッポケなものだ。

だから私は、今改めて言おう。

よく来たね。ジャパンカップを盛り上げてくれてありがとう。

 

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