【牧場の歴史 vol.04】高村牧場編
2019/09/13
カテゴリ:馬のはなし / 色々なはなし / 人のはなし / Pacallaオリジナル
この【牧場の歴史】シリーズは、編集部がPacalla参加牧場さんに足を運び、一軒一軒取材をさせていただいて、各牧場の歴史を紹介していくコンテンツです。
岡田スタッドグループに続く第4弾は、2012年に朝日チャレンジC(G3)を勝利したショウリュウムーン、2015年にカペラS(G3)を勝利したキクノストームなどを輩出した、高村牧場を訪問。オーナーの高村唯三さん、唯三さんの三男で現代表の祐太郎さん、その奥様のはるかさんにお話を伺うことができました。
(左)オーナーの高村唯三さん(右)現代表の祐太郎さん・はるかさんご夫妻
高村牧場とは
現在の高村牧場
高村牧場は北海道浦河郡浦河町にあるサラブレッドの生産牧場です。
2019年8月現在は本場の他、分場を2カ所に有し、15頭ほどの繁殖牝馬を繋養。主に家族4名で牧場経営を行っています。
高村牧場の歴史
≪米農家・林業から馬の生産へ≫
高村牧場のある浦河地域の土地は粘土質で畑作には不向きだったため、高村家はもともと米農家や林業を行って生計を立てていました。
昔の浦河では牛を多く繋養していましたが、そのうちに農耕用の馬車馬も繋養するようになります。さらに時代が進み、1970年頃に農業の機械化が一般的になり、馬車馬から競走馬(アラブ)の生産に切り替わりました。
ちょうどその頃、現オーナー唯三さんの父・久三郎さんの代に転機が訪れます。久三郎さんが小作者(※1)をやることになったのです。その際に土地を譲り受け、その土地で競走馬の生産を開始。これが高村牧場のはじまりです。
※1 小作者:地主から土地を守る役割
≪農家と牧場の兼業時代≫
先代・久三郎さんの代では、米農家と生産牧場の仕事を兼業していました。そのため所有していた繁殖牝馬は5~6頭と、数は多くなかったそうです。ですが、1980年には生産馬のコマチオーザが宇都宮記念(重賞)を勝利する結果を残しています。高村牧場初の重賞制覇です。
後の高村牧場オーナーとなる唯三さんは、6人兄弟の末っ子でした。他の兄弟よりも馬が好きで、朝は同じ浦河地域にある栄進牧場で乗り役としてアルバイト、昼には高村牧場に戻って仕事をするという生活を送っていました。そんな中、兄たちが外に稼ぎに行ったため、唯三さんは自分が家族を守りたいと思い、牧場を継ぐ決心をします。22歳で結婚し、25~6歳になる頃(※2)には徐々に父・久三郎さんから仕事を引き継いでいました。
(※2) 1980年、生産馬のコマチオーザが宇都宮記念(重賞)を勝利した頃
米農家の収入は年に1度、秋のみ。毎月、安定した収入を…と考えた唯三さんは、夢を託した自分の馬の他にも、以前勤めていた栄進牧場などから預託の仕事も受けるように。こうして、高村牧場の馬はアラブとサラブレッド合わせて8頭ほどになりました。
≪牧場の親父と呼ばれたい≫
牧場の仕事を引き継いだ唯三さんには、ひとつの思いがありました。それは『牧場の親父』になりたい、ということです。
競走馬の生産牧場は、生産馬がレースで結果を出さなければ、周囲から認めてもらうことができません。当時、まだ思うように結果を出せていなかった高村牧場。唯三さんは周囲から『農家の親父』と言われていました。
『農家の親父ではなく、牧場の親父と呼ばれるようになりたい』
その思いを胸に、唯三さんは馬づくりに精を出しました。
高村牧場は、唯三さんが牧場を継いでからこれまで『広い放牧地で、新芽を食べさせることで、活力のある強い馬ができる』という一貫した信念をもって、牧場経営を行っています。そして、この浦河地域は日高山脈から質のよい水が流れており、その信念を貫くにはぴったりな場所だといいます。
高村牧場の放牧地
唯三さんが40歳になる頃、その努力は実を結び始めました。1993年には笠松 クイーン特別C2(重賞)をタカノハリリーが勝利、続いて名古屋 東海ダービー(重賞)をサブリナチェリーが勝利します。
サブリナチェリーが東海ダービーを勝利した時の優勝レイや写真
『ショウリュウムーン』の中央重賞勝利
タカノハリリー、サブリナチェリーの勝利で勢いがついた高村牧場。しかし、その後は一番期待をしていた馬が競走馬になれず、経営が行き詰まるなど苦しい時期が続いたそうです。農協からはいちご農家の研修を勧められ、唯三さんは牧場を辞めようとしたこともあったといいます。
そんな折、一度は馬の世界からは離れようと普通高校を卒業後、大学も経済学部に進んだ唯三さんの三男で、末っ子の祐太郎さんが牧場を継ぐことを決意。高村牧場に戻ってくることになりました。
当時、唯三さんは8頭から馬を増やすつもりはありませんでしたが、祐太郎さんの決意によって、再び牧場規模の拡大を目指すことに。そして、祐太郎さんは本格的に牧場の跡を継ぐために、大学卒業後にはオーストラリアで、海外ブリーダーの繁殖と1歳馬のセリ馴致を学ぶことになりました。
1年の海外研修を経て祐太郎さんが帰国した直後、2007年6月7日に生まれたのがショウリュウムーンです。祐太郎さんは、当歳だったショウリュウムーンが可愛くて仕方がなかったそうです。
ショウリュウムーン
ショウリュウムーンは、2009年に京都競馬場の新馬戦でデビュー。7番人気で2着と惜敗し、続く2戦目の未勝利戦では、1番人気に推されるも3着とまたもや惜敗となりました。
2010年に入り、3戦目で未勝利を脱し、次走のチューリップ賞(G3)では9番人気だったものの、直線先頭のアパパネをゴール前で差し切って堂々の1着。重賞初挑戦での初制覇という快挙です。そして、この勝利は高村牧場にとって初の中央重賞勝利でもありました。
すべての繁殖牝馬にいい種をつけられるのがいちばんですが、現実はそうもいきません。複数いる繁殖牝馬の中から、『これだ!』という1頭に賭けて生産に臨むのだと唯三さんはいいます。その想いをかけた1頭から生まれた子が中央重賞馬になったのです。唯三さんにとって、このチューリップ賞優勝は、今でも『これまでで一番うれしかった勝利』です。
また、ショウリュウムーンは2011年の京都牝馬Sでもヒカルアマランサスに1馬身3/4差をつけて勝利する活躍を見せました。
(左)チューリップ賞の口取り写真(右)京都牝馬Sレース写真
年が明け2012年。京都金杯4着、京都牝馬S2着、中京記念2着など惜しいレースが多く見られたショウリュウムーン。しかし、朝日チャレンジC(G3)では、最後の直線で混戦から抜け出し見事優勝。それは祐太郎さんが当時お付き合いをしていた、はるかさんにプロポーズをした翌日のできごとでもありました。それを祝福するように、ショウリュウムーンは3度目の重賞勝利を高村牧場に届けたのです。ショウリュウムーンは高村牧場にとって、本当に忘れられない1頭になりました。
ショウリュウムーンの優勝レイ。3年連続での重賞制覇となった
その後、2015年には、キクノストームもカペラS(G3)で中央重賞勝利。ショウリュウムーンがチューリップ賞で勝ったときには「中央競馬で勝てる自信はまだなかった」という唯三さんですが、2頭の中央重賞馬を輩出し、名実ともに『牧場の親父』となりました。
キクノストーム
現在の高村牧場、家族経営の心得とは
2019年現在、唯三さんはほとんどの仕事を息子の祐太郎さんに任せているといいます。
「息子は海外でも馬づくりを勉強してきましたし、私は、責任を持たせた方が人間は成長すると思っているんです。自分が前に出すぎることで、息子のやりたいことができなくなるのもよくないと思いますし。私は少し控えめにしていようと思っています(笑)。今は馬づくりについては、ほぼ息子に任せて、自分は機械まわりの担当という感じです。
それに、親父の命令、誰かの命令で動くんじゃなくて、お互いに『こうやったら良いよね』という盛り上がりをもって、協力をしながらやっていくことが、家族経営がうまくいく秘訣なんじゃないかなと。私自身は、馬が繋いでくれた縁で、息子に良い奥さんがきてくれて、孫もできて、家族で一緒に牧場をやっている今が、とても幸せだなと思っていますよ」(唯三さん)
高村家(高村牧場)の皆さん
これからの高村牧場
最後に、これからの高村牧場を担っていく、祐太郎さんとはるかさんにお話を聞きました。
「最近はどんどん競走馬の生産に関わる人も少なくなってきています。ですから、牧場同士は敵対するのではなく、チームを組んでやっていくことが大事になってくるのではないかと思っています。お互いを認め合って、切磋琢磨していくのが理想ですね。また、競馬だけでなく馬文化全体を見渡したときに、派生した形も出てくると思うので、時代の変化に柔軟に対応していけるようになりたいですね」(祐太郎さん)
「私は年度代表馬とか、ファン投票第1位とか…皆に愛される馬が、高村牧場から生まれてくれたらいいなと思います」(はるかさん)
創業時から家族が一丸となって、馬づくりを行ってきた高村牧場。祐太郎さんのお兄さんたちも、自分の仕事の合間を縫って、牧場の手伝いにきてくれるそう。取材中も、高村家の皆さんの仲のよさが伝わるシーンをたくさん目にすることができました。家族愛にあふれる高村牧場から、皆に愛される名馬が生まれることをPacalla編集部も祈っています!