1902年7月12日 オリンピック馬術金メダリスト「西 竹一」誕生

2018/07/12

カテゴリ:Pacallaオリジナル

1902年7月12日プレイバック

「今日」7月12日のプレイバックです。
1902年のこの日、日本人唯一の馬術金メダリスト 西 竹一(にし たけいち)氏が誕生しました。

 

日本人唯一の馬術金メダリスト、西 竹一とウラヌス号

日本でも競馬は一般認知度が高いですが、馬術競技というとまだまだマイナーなイメージがあります。
皆さんは、そんな馬術競技で、過去に日本人がオリンピック金メダルを獲得しているのをご存じですか?

そのメダリストの名は『西 竹一』
帝国陸軍の騎兵将校であった西氏は1932年のロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技で愛馬『ウラヌス号』とともに優勝を果たしました。

ウラヌス号は、血統書こそなかったもののフランス産アングロノルマン種のセン馬で、体高181㎝(※)の巨大な馬だったそうですが、障害馬としての資質と柔軟性を兼ね備えていました。
また、性格も温和でロサンゼルスに船で輸送される際も、非常に大人しかったという記録が残されています。
(※)体高は181cmもなかったという説もある

西氏とウラヌス号の活躍は、当時の日本における馬産意欲の増大と馬産思想の普及に大きく貢献しました。

 

通称『バロン西』の生い立ち・人となり

現代のわたしたちは、日本人の陸軍の騎兵将校と聞くと、厳格で物堅いイメージを持ってしまいそうですが西氏は違いました。

現在の東京西麻布の華族の家に生まれ、男爵(バロン)という爵位を持っていた西氏。
帝国陸軍の出場選手(※)としてオリンピックに出場するにも関わらず、軍の馬ではなく、愛馬となる『ウラヌス号』を当時2000円という大金で、自腹を切って購入できるほど恵まれていました。
(※)当時の馬術選手は帝国陸軍の騎兵将校に限定されていた

性格も天真爛漫で、とても明るい人物だったそうです。
英語も堪能で、身長も175cmと当時としては高身長。
馬に乗って高級車クライスラーを飛越のパフォーマンスをするなど、非常に豪快でした。
オリンピックでの活躍と相まって、このような人柄と出自が欧米の社交界から人気を集めた西氏は『バロン西』と呼ばれ、ハリウッド俳優たちとも交流を持つほどだったそう。
また、そののちにはロサンゼルスの名誉市民にもなっています。

残念なことに、その日本人離れした豪快な性格や振る舞いをよく思わない者も多くいましたが、西氏は『私を理解しない人は多かった。しかし、ウラヌスだけは、いつも私を理解してくれた』と常々語っていました。

 

国産サラブレッドと西 竹一

『西 竹一』が語られるとき、その多くは前述のウラヌス号とのエピソードが取り上げられますが、もう一頭取り上げたい馬がいます。

『アスコット号』です。

アスコット号は、皆さんおなじみのサラブレッド。
西氏はロサンゼルスオリンピックの後に、1936年のベルリンオリンピックでは国産馬で優勝したいと考え、アスコット号とともにトレーニングを開始しました。

アスコット号は、宮内省下総御料牧場で生まれた競走馬。
天皇賞の前身である帝室御賞典や目黒記念をはじめ17勝を挙げ、オリンピック馬術競技馬への転用がなければ、確実に種牡馬入りを果たしていたと言われています。

ベルリンオリンピックで、アスコット号は総合馬術競技(※)に出場し、優勝とはなりませんでしたが、50頭中12位の成績を残します。

西氏が直前に高熱を出すなどのトラブルや、調教が間に合わなかった部分があるなかでのこの結果は、当時評価の低かった国産馬の優秀さを広く伝え、また、その馬体を見た競技委員長グスターフ・ラウ氏より「非常に立派な、注目に値する日本産純血馬」と評されました。
(※)現行では馬場馬術、クロスカントリー、障害飛越の3種目を数日間かけて同一人馬たたかう競技

 

硫黄島の戦いと西 竹一

ベルリンオリンピックが終わり、本業の軍務に戻った西氏はしばらく軍馬の育成などに従事していましたが、時代とともに騎兵部隊が削減され、戦車連隊へ異動します。

1944年6月、戦車第26連隊の中佐として硫黄島へ向かうことになった西氏は、東京を発つ前に、馬事公苑で余生を過ごしていたウラヌス号に会い、そのたてがみを切り取って、軍服の左胸にしまい、硫黄島に持っていきました。

西氏は硫黄島赴任後も、愛用の鞭を手にエルメスの乗馬ブーツを履いて、乗馬で島内を駈けていたそうで、2006年に公開されたクリント・イーストウッド監督のヒット作『硫黄島からの手紙』でも、伊原剛志氏が演じる西中佐が馬を連れているシーンが登場しています。
しかし、島に連れていった馬のうちの一頭が敵弾の破片によってケガをしてしまい、馬を心から愛する西氏はそれ以降、島での乗馬を止めました。

硫黄島での戦いが最終段階にさしかかったときに、アメリカ軍の拡声器から『オリンピックの英雄、バロン西。君は立派に軍人としての責任を果たしたのだ。ここで君を失うは惜しい。こちらにきなさい』と呼びかけがあったと言います。

しかし、西氏は軍人としての名誉を守ることを選び、その後、硫黄島で戦死しました。
そして、ウラヌス号は西氏の戦死の一週間後、後を追うように亡くなるのです。
ウラヌス号の晩年は、『ミスター競馬』とも呼ばれた野平祐二氏も見届けており、老衰で死ぬ1週間前まで乗馬訓練をしていたこと、馬房には『二十六年(26歳)』という木札がかけられていたことを覚えていると語っています。

バロン西が硫黄島の戦いで肌身離さず持っていたウラヌス号のたてがみは、1990年にアメリカで発見され、現在は軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に保管されています。

 


<参考資料>
史話 人馬三千年(柴田鉦三郎 著/日本中央競馬会 出版)
馬に乗った少年団 日本騎道少年団の記録(松本隆直 編集)
富国強馬 ウマからみた近代日本 (武市銀次郎 著/講談社 出版)
硫黄島―太平洋戦争死闘記(リチャード・F・ニューカム 著/光人社 出版)
Wikipedia 西 竹一
Wikipedia アスコット

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