1889年4月17日 フランスの伝説的馬産家「マルセル・ブサック」誕生
2018/04/17
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4月17日プレイバック
「今日」4月17日のプレイバックです!
1889年の今日は、マルセル・ブサックが誕生した日でした。
マルセル・ブサック
マルセル・ブサック(1889年4月17日 – 1980年3月21日)はフランス人の馬産家・馬主、実業家です。
競走馬の生産や馬主として有名ですが、本業の繊維業でも超有名人なのです。
元々家業であった繊維業を継ぐと、戦時の軍需・戦後の民需に応じて莫大な富を築き、「繊維王」と呼ばれるまでになりました。
その富をもってパトロンとしても活動をしていたブサック。
有名なところでは「モードの王」の異名で知られるクリスチャン・ディオールのパトロンだったこと。
ファッションの都パリのオートクチュール界の頂点に君臨するディオールはブサックの援助により大成功を収めました。
最盛期には新聞社もおこすなど、隆盛を極めた人物です。
また、凱旋門賞への高額賞金設定や前夜晩餐会の発足を主導し、
各国から一流馬を招致するなど、現在に至る世界最高峰の競走としての地位を整備するにあたっても力を尽くした方です。
驚異的な戦績
とにかくブサックの馬は強かった!
ブサック所有馬の有名な戦績をざっと纏めました。
・ジョッケクルブ賞(通称フランスダービー)(12回)
・凱旋門賞(6回)
・パリ大賞典
・英2000ギニー
・英ダービー
・英セントレジャーステークス
その他多数のG1級競走優勝
仏の有名どころはもちろん、
英クラシック全て制覇、
そして凱旋門賞6度の優勝は馬主としては最多の勝利数です。
仏英両国のクラシック競走を全部勝つなど、主戦場としていたフランス・イギリスで約1800勝を挙げ、
フランスのリーディングに馬主として14回、生産者として17回も輝いてます。輝きっぱなしです。
また、1950年と1951年には英愛でも馬主・生産者リーディングを獲得しています。
ブサック初期
ブサックの競走馬生産のスタートは小規模なものでした。
馬主としても競走馬を抱えていましたが、セリで売却する馬の方が多かったのです。
ブサックが本気を出すきっかけになったのが、Sun Briar という馬でした。
アメリカの馬主に売却したこの馬が米2歳のチャンピオンになり、
翌年の米トラヴァーズステークスを優勝。
ブサックは馬主でもありますから、売却したことをひどく後悔したとか。
これで火が付いたブサック。
当時欧州の生産家は競馬新興国のアメリカが大きなマーケットになっていましたが、
アメリカの馬を欧州の馬主や生産者が買い付けるという反対の流れも生まれていました。
ハーマン・デュリエというアメリカの馬産家がいました。
デュリエは、アメリカで馬券発売禁止になったのをきっかけに馬産の本拠地をフランスに移します。
デュリエは自身の所有馬(Sweeper)で英2000ギニーを勝ちますが、
当時のイギリス人からすると、米血統は受け入れられていませんでした。(実際に米血統を締め出す動きもあったようです)
デュリエはそんな野次をものともせず、翌年の英ダービーに自身の所有馬 Durbar を仏産馬としてエントリーします。
しかも勝っちゃうんですね。イギリス人は苦虫を噛み潰したような顔をしていたでしょう。
ほどなくしてデュリエは亡くなりますが、夫人が引き続き生産を行っていました。
牧場拡大に乗り出していたブサックはデュリエ夫人を訪れ、当時の一歳馬を一括で購入します。
その中にいたのが Durban です。
後にブサック帝国の礎を築く大種牡馬 Tourbillon のお母さんですね。
欧州の血統に米血統など、様々な交配論を学びつつ、
ブサックは早くから結果を出し始めます。
ブサック帝国時代
最盛期のブサックの生産馬の数は、フェデリコ・テシオ、ダービー卿の10倍ほどとも言われていました。
彼の生産馬はその多くが自家生産種牡馬に依存した交配です。
自家生産の3大種牡馬 Tourbillon(トウルビヨン)、Pharis(ファリス)、Djebel(ジェベル) 彼らこそがブサック帝国を支えた立役者。
彼らの産駒がバコバコ国内外のレースを勝ちまくります。
繁殖牝馬、種牡馬ともに自家生産主体のため、どうしても血が続くに連れて交配の選択肢が狭まってくるのも事実でした。
但し、それでもつけたりないくらいの牝馬がいたというのですから驚きです。
また、ブサックは極端なインブリードを行うことでよく逸話が残っていますが、
有名なのは コロナティオン でしょう。
父父→Tourbillon
母父→Tourbillon
Tourbillon2x2という現代ですとなかなか危険すぎてやらない?配合だと思います。
当時も評論家からは批判の嵐だったとか。
コロナティオンはG1級競走にも勝ちましたが、なかなか子供が生まれず、
結局子を残すことは出来ませんでした。
極端なインブリードの影響という説もありますが、
全妹の牝馬は仔出しが良かったらしく、インブリードによる影響と断定は出来ないと言われています。
帝国の終焉
短期間に隆盛と没落があったため、
その波乱万丈な人生において、没落期にスポットが当てられがちなブサック。
インブリードによって自滅したとか、交配において失敗したような風説がありますが、
原因はそこではないように思います。
まず最大の原因と思うのは種牡馬。
・3大自家生産種牡馬 Tourbillon、Pharis、Djebel が4年間で全て死んでしまう。
・次代の種牡馬候補4頭が全て失敗に終わる。
泣きっ面に蜂なんてレベルじゃないくらいにひどく落ち込んだと思います。
次代の候補として米から買い付けた三冠馬 Whirlaway をはじめとした4頭。
これが全て失敗に終わってしまったことはブサックにとって最も想定外だったことでしょう。
種牡馬を当て続けるというのがいかに難しいかというのが分かります。
また、Pharisが戦時下においてドイツ軍に5年間接収されていたこと、
本業の繊維業が傾いてしまったこと。
(悪いことって続くんですよね…)
などが重なり、ブサック帝国は一気に下降してしまいます。
また、この時期に様々な配合を行ったことにより、
超良血と言われたブサックの牝系の血統が後世に残らなくなってしまったことは、
競馬の歴史的にみても大変もったいないことでした。
日本の競馬とブサックの関わり
日本におけるブサック生産馬の血統と言えばパーソロンが挙げられます。
1964年にシンボリ牧場の和田代表とメジロ牧場の北野代表が共同で購入した種牡馬で、
皇帝 シンボリルドルフ のお父さんとして有名です。
このパーソロンの母父がブサック生産の Pharis になります。
パーソロンは日本でリーディグサイアーになるなど、
現在でも日本の血統に多くの影響を与えています。
ブサックのその後
1980年に他界したブサック。
専門的な交配論については分からないので言及しませんが、
テシオに引けをとらないほどの天才だったこと、そして様々な交配を開拓したパイオニアであったことは言うに及ばずです。
当時においてはその積極性について賛否両論あり、
アーガー・ハーン4世などほんの一握りの人々にしか理解されず、
時の人と言われるような風潮があるのは少し残念です。
ブサックの生産事業の大部分を買い取った前述のアーガー・ハーン4世は現在でも多くの生産事業を行い、
競馬業界でも著名な人物です。(ブラッシンググルームや英ダービー馬シャーラスタニなどが有名)
ブサックの死後、フランス競馬ではブサックの功績を讃えて
凱旋門賞ウィークエンドに開催される2歳牝馬G1レースに「マルセル・ブサック賞」の名を冠するようになりました。(1980年改称)
マルセル・ブサックの事業にかける情熱は素晴らしく、
競走馬の生産だけでなく、繊維業や新聞社の事業にも尽力した実業家でした。
残念ながらブサックの資産はほぼ全てが人手に渡ってしまいましたが、
・新聞社→フランス最古参の日刊紙フィガロ社に吸収、
・繊維業→ベルナール・アルノー(ルイ・ヴィトンの会社のCEO)が買収、
・競走馬事業→アーガー・ハーン4世が買収、
と、各分野ともに重要なポジションを担う人物や会社に渡っており、
事業に懸ける情熱的な“ブサック”の血統は各事業においてまだまだ生き続けていくのだと思います。