神戸で出会った名馬
2018/01/11
カテゴリ:馬のはなし / Pacallaオリジナル
春夏秋冬、365日、朝昼晩。競馬のことが頭から離れる瞬間はない。例えばガードレール。ウマキチの私から見ると、あれはラチ以外何物でもない。馬社会も人間社会も、ラチ沿いは混雑するので、私はいつも邪魔にならないであろうアウトコースを歩いている。例え距離ロスしても。
或いは夕焼け。特に金曜日に橙色のそれを見ると、7枠を思い起こし、来たる週末に胸の高鳴りを覚える。
何を見ても馬。そんな我がhorse eyeが、とある駅で突然、名馬を捕らえた。
病院のなんて事はない看板広告。よく見てみると、聴診器をぶら下げた馬の絵が描かれていた。
頭絡を着け、明らかに実在した競走馬を描写したであろう流星の形…病院の名前は田所病院。
…ああ!マヤノトップガンだ!と、独り合点しトップガンとの久々の再会にテンションが上がった。
父ブライアンズタイム、母アルプミープリーズ。1992年3月24日に新冠で生まれた。
ブライアンズタイムといえば、彼の一つ上で三冠馬に輝いたナリタブライアンから得るイメージが色濃い。芝を根こそぎ剥がす様なパワフルさ、黒々とした立派な馬体。まるで大魔王である。
トップガンの被毛は明るい栗色だった。額には綺麗な流星が流れ、大魔王的オーラはなくイケメンタレントみたいな風貌を持っていた。
黒鹿毛のナリタブライアンが怖い男なら、栗毛のマヤノトップガンは優しい男。どこかしら優しいイメージを抱きやすい栗毛という被毛は、戦うサラブレッド野郎達にとっては損な毛色なのかもしれない。
しかし優しいトップガンは、飽くまで外貌、風貌のみからのイメージ像。競馬場に入ると、彼は天才でヒールな男に変わった。
初めてのGIタイトルとなった95年の菊花賞。人気はフランス帰りの牝馬、ダンスパートナーが集めていた。そんな可憐な少女の大いなる挑戦を、トップガンは退けた。ドラマティックに行くならダンスが勝つシナリオだろうけど、栗色の戦闘機に、そんな在り来たりなシナリオは関係なかった。
歴史に残る優駿へ。テイク・オフした戦闘機は、暮れの有馬記念もブチ抜く。屠った相手の中には、あのナリタブライアンもいた。怪我のイップスで苦しむ先輩に慈悲など掛けない。次は俺の時代だ。と、彼は振り向きもせず飛んで行った。
翌1996年。
この年、トップガンは宝塚記念を制しているが、悲しいかなこの勝利が語られることはあまりない。このGI制覇を霞ませるくらいの競馬を彼はやったからだ。
第44回阪神大賞典。前年負かしたナリタブライアンとの死闘は、”平成の名勝負”として今日でも度々語られる。
競馬の神様と言われた大川慶次郎氏やトップガンの手綱を握っていた田原成貴氏は、これを名勝負と呼ぶことに否定的だが、私はいつ何度見ても熱くなるこのレースは、間違いなく名勝負だと確信している。例え尊敬する神様と、騎乗姿がカッコよかった玉三郎が批判しても、これだけは譲らない。まだ見たことがないルーキーファンの方は、ブライアンとトップガンの歩みを知ってから是非一度見て欲しい。ますます、競馬が好きになるだろう。
当エッセイにて、初めて取り上げさせてもらった馬はサクラローレルだった。あの栃栗毛の美馬は、今でも私の中の名馬ランキングで殿堂入りのポジションにいる。
その我がローレルさんを負かした97年の天皇賞春。手強いライバル云々といったローレル贔屓の気持ちを忘れてしまうくらいの走りをトップガンは見せた。
先に抜け出すマーベラスサンデー、それを完全に捕らえフランスへ飛び立とうとするサクラローレル。再び淀のターフに桜咲く。と思ったその刹那!
外から眩い輝きを放ちマッハの閃光が突き抜けた。入線後、トップガンの頭をワシャワシャと撫でて祝福した田原の姿を含め、全てが美しかった。先に紹介した阪神大賞典に続き、この97年天皇賞春も視聴することをお勧めしたい。
種牡馬としてはプリサイスマシーン、メイショウトウコンといった”砂のいぶし銀ホース”を、競馬場に送り出してくれた。
無論、彼らも素晴らしい産駒だが、私はチャクラをいの一番に挙げてやりたい。父と同じ栗馬でマヤノの服、芝の中長距離で活躍したところに、メジロ的なロマンと夢を抱いた。
なんてことない看板広告を見て、偶然の再会を果たしたマヤノトップガン。
病患ってもトップガンに診てもらえるなら…なんていう愚にも付かないことが頭をよぎったが、それをやってしもたら”次のトップガン”を観られないので、今年も元気に、競馬と馬のことだけを真剣に考えながら生きていきます。
その他に考えること?無いわ。そんなもん(笑)