【牧場の歴史 vol.06】杵臼牧場編

2020/02/20

カテゴリ:馬のはなし / 色々なはなし / 人のはなし / Pacallaオリジナル

この【牧場の歴史】シリーズは、編集部がPacalla参加牧場さんに足を運び、一軒一軒取材をさせていただいて、各牧場の歴史を紹介していくコンテンツです。

 

 

川越ファームに続く第6弾は、かの名馬『テイエムオペラオー』を輩出した杵臼牧場を訪問。現代表である鎌田信一さんと、長男であり現在取締役を務める鎌田正信さんにお話を伺いました。

重賞制覇レポート『ブラックホール』杵臼牧場 編(札幌2歳S)はこちら)≫

(左)取締役・鎌田正信さん(右)代表取締役・鎌田信一さん(左)取締役・鎌田正信さん(右)代表取締役・鎌田信一さん

 

杵臼牧場とは

現在の杵臼牧場現在の杵臼牧場

杵臼牧場は北海道の浦河地域に位置する、サラブレッドの生産牧場です。代表産駒にはシンボリルドルフに続いての中央競馬G1最多勝タイ(7勝)を記録し、当時の獲得賞金世界記録を抜いたテイエムオペラオーの他、2000年に京王杯3歳ステークス(G2)に勝った『テイエムサウスポー』、昨年9月に札幌2歳ステークスを勝利した『ブラックホール』がいます。

現在は本場の他に2つの分場を所有し、45頭弱の繁殖牝馬を抱えています。また、杵臼牧場には家族のほか9名の従業員が所属。女性スタッフも在籍しています。

 

杵臼牧場の歴史

《農家から分家し、馬の生産へ》

杵臼牧場の歴史は、現代表の信一さんが小学校低学年だった、1955年(昭和30年)頃。信一さんの父である鎌田信さんが本家から分家をしたところから始まりました。
鎌田家はもともと野菜農家を営んでおり、馬が好きだった信さんは野菜の行商を始め、その売り上げを元手に馬の生産牧場として道を歩むことにしたのです。しかし、もともと牧場ではなかった家が、繁殖牝馬を手に入れることは非常に難しい時代でした。そんな中、最初に杵臼牧場にやってきた馬は、農林水産省から払い下げられたアラブだったそう。

まだ小さかった信一さんはこの頃から牧場の手伝いをしており、厩舎掃除が終わらず、学校へ行くバスに乗り遅れてしまうこともしばしばだったと振り返ります。

杵臼牧場、初代の信さんと2代目の信一さん(幼少期)杵臼牧場、初代の信さんと2代目の信一さん(幼少期)

 

《杵臼牧場初のサラブレッド“カスガ”》

1957~59年(昭和33~35年)頃になると、杵臼牧場に最初のサラブレッドがやってきます。名前を『カスガ』といいました。カスガは1951年(昭和26年)生まれの牝馬で、1956年(昭和32年)に繁殖に上がり、どこかを経由して杵臼牧場にきたそうですが、その経緯については詳しくはわかっていませんでした。
しかし、カスガは初仔を出産すると子育てを放棄。それが原因でどこかの牧場を出されてしまったのかもしれないと信さんは思いました。とはいえ、杵臼牧場は当時まだ新しい牧場。戦前からある生産牧場のように競馬場とコネクションもなく、繁殖牝馬を手に入れることは容易ではありません。信さんはカスガを手放さず、壁に押し付けて動きを封じ、仔馬に母乳を飲ませたそうです。繁殖牝馬の数がやっと10頭を超えたのは、1962年(昭和37年)になる頃でした。

 

《恩人、布施・武田調教師との出会い》

信一さんが高校生になった1965年(昭和40年)頃になると、杵臼牧場のお客さんは関西のお客様ばかりになっていました。その理由はとある調教師たちとの出会いがあったからです。

初代の信さんが、布施調教師に出会ったきっかけは明確ではありませんが、昔からずっと付き合いのあった大北牧場※に布施調教師が出入りしており、信さんが大北牧場に行った際に知り合ったのではないかといわれています。布施調教師は一本筋の通った人。一度関わった馬主や牧場、ジョッキーなど、まわりの人間をとても大切にする人でした。そこから、杵臼牧場には布施調教師が繋いでくれた縁から生まれた取引が増えていきました。

もう一人、杵臼牧場をとても大事にしてくれた調教師がいます。河内洋、武豊といった名ジョッキーを育て上げた武田作十郎調教師です。武田調教師が北海道出身だった縁で、初代の信さんがどこかで知り合ったそう。武田調教師には多くの馬を預託してもらい、生産馬も購入してもらったといいます。
こうして、お世話になった二人が栗東の調教師だったため、昭和40年頃には杵臼牧場の7~8割のお客様が関西の方々となっていったのです。

※大北牧場についてはこちら≫

 

《2代目、信一さんの時代へ》

1968年(昭和43年)に信一さんは高校を卒業。杵臼牧場の跡を継ぐべく牧場の仕事に精を出します。
1973年(昭和48年)には、当時隣にあった川越牧場と敷地を交換。現在の所在地に牧場を移し、新しい厩舎と2つめの分場も完成しました。移転したちょうどその年に、布施厩舎に入厩していた生産馬の『キングラナーク』が産経大阪杯(グレード制以前)で優勝を果たすなど、当時の杵臼牧場は登り調子でした。

しかし、1975年(昭和50年)のことです。信一さんが27歳になり、結婚もし、跡継ぎとしても順風満帆に見えたその矢先。父・信さんが病に伏してしまったのです。病院に初めてかかった時にはすでに余命3ヶ月。それでも入院中に病院を抜け出し、社台セールで3頭の繁殖牝馬を買ってきてしまうなど、本当に馬が大好きな人でした。1981年(昭和56年)に杵臼牧場の初代、鎌田信さんは亡くなりました。

当時、信一さんはまだ一人前とはいえず、急に父を亡くしたこの頃が一番つらく、苦しい時期だったといいます。それを支えてくれたのも、前述の布施調教師と武田調教師の二人でした。「今の杵臼牧場があるのは、布施調教師と武田調教師のおかげ」と、信一さんは感謝の言葉を何度も口にします。布施調教師・武田調教師との付き合いは、二人が亡くなるまで続いていきました。

昭和48年に建てられた厩舎。牧草がたくさん保管できるように作られた屋根が三角の文化屋根。

 

《信一さんを支える妻・満寿美さんの活躍》

そしてもう一人。父を亡くして牧場経営に苦しむ信一さんを支えた人、妻の満寿美さんがいます。
満寿美さんは様似の牛農家の出身で、結婚をするまで馬を扱ったことはなかったそうです。しかし、結婚当初から一生懸命働いてくれたと信一さんは語ります。
先代の信さんが亡くなった時、信さん妻(信一さんの母)である栄子さんが、牧場のことをとてもよく理解しており、数多くの助言をしてくれたという経験から、信一さんは満寿美さんにもたくさん仕事を任せるようにしてきました。経営のことも、自分一人で決めることは何一つとしてなく、必ず満寿美さんに相談しています。
現在は満寿美さんと息子の正信さんの二人で、主に馬を販売していますが、それぞれに別のお客様がついており、満寿美さんは誰よりも頼れる杵臼牧場の営業ウーマン。信一さんは「自分がいつ死んでも、妻がいるから安心だ」と笑顔を見せます。

信一さんと子どもたち。左は3代目の正信さん(1979年生まれ)ずっと二人三脚で牧場経営を行ってきたお二人(2000年)

信一さんと子どもたち。左は3代目の正信さん(1979年生まれ)信一さんと子どもたち。左は3代目の正信さん(1979年生まれ)

 

杵臼血統、マルカアイリスの中央重賞初勝利

先代の信さんが亡くなってからは、苦労をしながらも夫婦で力を合わせ、日々努力を重ねてきた杵臼牧場。
牧場を空けることがないよう、子どもたちが大人になるまでは、夫婦で遠出をすることもありませんでした。そんな二人の努力が実を結び、1992年の小倉3歳ステークス(G3)で、生産馬『マルカアイリス』が杵臼牧場にとって、グレード制導入後初の中央重賞勝利をもたらしました。

マルカアイリスの父『ブレイヴェストローマン』はアメリカから先代の信さんが種牡馬として持ってきた馬で、さらにマルカアイリスは杵臼牧場の基礎牝系である『バンバレラ』の血を引く馬※ということで、その喜びはひとしお。その後も「タガノアイリス」→「シルクアイリス」→「アイリスフィール」とその血統は脈々と受け継がれています。

※バンバレラの子「イカホゲレン」がマルカアイリスの母にあたる

 

テイエムオペラオーをはじめとする生産馬の活躍

前述のマルカアイリス重賞制覇の6年ほど前のことです。1986年(昭和61年)、信一さんは36歳の時に、初めての海外出張でアメリカに行きました。その時に購入してきた馬2頭のうちの1頭が、後のテイエムオペラオーの母となる『ワンスウエド』です。初めて海外のセリに参加し、競り落とす時の緊張感は、今でも鮮明に覚えているといいます。

テイエムオペラオーの母『ワンスウエド』テイエムオペラオーの母『ワンスウエド』

1988年(昭和63年)にワンスウエドは初仔の『チャンネルフォー』を出産。チャンネルフォーは重賞制覇こそ叶わなかったものの、立夏ステークス優勝、阪急杯(G3)3着、CBC賞(G2)2着と思わぬ走りを見せました。信一さんはワンスウエドの子が「こんなに走るとは思わなかった」と言います。もちろん、その後のテイエムオペラオーの活躍など、この時点では想像もしていませんでした。

そして1996年(平成8年)に生まれたのが、父に『オペラハウス』を持つテイエムオペラオーです。
布施調教師の引退後、引き継いだ岩元市三調教師がテイエムオペラオーを見に杵臼牧場へやってきました。その時、一緒に訪れたのがテイエム技研株式会社の創業者であり、馬主である竹園正繼氏でした。二人はテイエムオペラオーを気に入りましたが、オペラハウスは軽種馬協会のA級種牡馬。当時、A級種牡馬はセリに出さなければならないという規則があったため、庭先ですぐに売ることはできません。秋のセールに上場し、竹園氏が1000万円落札したのでした。その後のテイエムオペラオーの活躍については皆さんもご存じの通り。

まだ幼いテイエムオペラオーまだ幼いテイエムオペラオー

信一さんは、初のG1参戦となった1999年の皐月賞の際に、初めて現地での応援へ。仲が良かった岡本牧場からもオースミブライトの出走があったため、一緒に中山競馬場へ向かいました。ゴール板の前に飛び込んできたテイエムオペラオーを見た時は「うちの馬だなんて思わなかった」と、信一さんは振り返ります。そして、2着クビ差でオースミブライトがゴールし、見事ワンツーフィニッシュを飾りました。
以降のテイエムオペラオー無双時代は、どんなに強いと信じていても、やはりゴール前だけは、いつもどきどきしたと信一さんは語ります。

テイエムオペラオーに関する記念品が飾られる専用の部屋テイエムオペラオーに関する記念品が飾られる専用の部屋

テイエムオペラオー 天皇賞(秋)テイエムオペラオー 天皇賞(秋)



そして、テイエムオペラオーの引退後には、2000年にテイエムサウスポーが京王杯3歳ステークス(G3)を勝利。昨年9月(2019年9月)にはブラックホールホールが札幌2歳ステークス(G3)で優勝を飾り、杵臼牧場にとって実に18年ぶりの重賞勝利をもたらしました。

 

これからの杵臼牧場

最後に2代目信一さんから、2012年に家業を継ぐため実家へ戻ってきた正信さんへのメッセージを。そして正信さんにこれからの杵臼牧場について伺いました。

3代目、正信さんへのエールを送る信一さん3代目、正信さんへのエールを送る信一さん

「杵臼牧場では、昔から放牧地の更新を頻繁に行うようにし、牧草作りには力を入れています。静内のように山と平地がゆるやかに繋がっている地域と違って、浦河地域は山と平地の境目がはっきりとしているため、放牧地を簡単には広げることができません。そのため、放牧地の場所を小まめに変えるようにしています。
今は多くの馬用サプリなども開発されていますが、私はできるだけ牧草で競走馬としての体を作るために必要な栄養素が摂れるようにしています。それは親父の時から変わらない杵臼牧場の信念。それは息子の代になっても続けていって欲しいですね。

昔は近くの牧場と助け合ったり、切磋琢磨したり。牧場同士の繋がりが強かったように思います。農機具や車も共同購入したりしていましたしね。でも、昨今はそういった牧場同士の繋がりや、調教師や馬主との関係も、昔と比べると希薄になっている気がします。経営的に大丈夫でも、あと10年15年もしたら跡継ぎがいなくて、畳むところも出てくるでしょう。そういった中で牧場をやっていくのは、なかなか大変なことだと思いますが、息子には人と関わりを大事にしていって欲しいなと思います」(信一さん)

これからの杵臼牧場を担っていく正信さんこれからの杵臼牧場を担っていく正信さん

「今は好景気ですが、これがいつまで続くかはわかりません。様子を見ながらではありますが、まだしばらくは『我慢の時代』だと考えているので、また次のタイミングを見極めて、経営的に許すのであれば、規模の拡大などにチャレンジしていきたいです。

それから、もう1つ。私は杵臼牧場のスタッフ全員に、可能な限り馬とコミュニケーションを取ってほしいなと思っています。育成牧場に行った時に、人間としっかり信頼関係を築けるような馬をつくっていきたいと考えています。自分たちの生産した馬が、どこへ行っても、いろんな人に可愛がられる馬であってほしいですね」(正信さん)

―――

名馬テイエムオペラオーを輩出した杵臼牧場。その活躍から20年近くが経った昨年、3代目の正信さんが牧場に帰ってきて7年目に、生産馬の『ブラックホール』が札幌2歳ステークス(G3)での勝利を飾りました。これを足掛かりに、杵臼牧場のまた新たな歴史がはじまりそうです。杵臼牧場の活躍から目が離せません!

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