激情のグランプリ
2017/12/20
カテゴリ:馬のはなし / Pacallaオリジナル
頂点、中間、底辺と立場を3つに分類した時、果たしてどの場所に位置していたいか?と、考えた時、私は「中間の微妙に下あたり。」という、意味不明な第4の答えを出す。
底辺では腐るのが早そうだし、頂点では能力にプラス、人間としての器の善し悪しも求められそうなので面倒。よって極々平凡な位置で、適当に浮世の風に乗っかって、何となく生きておくのが、精神的にも楽だと思う。野心のやの字も無い様には、我ながら呆れるが、まあ別段誰に迷惑をかけるわけでも無いので、これでいいのだと居直りたい。
競馬界にも、この様な概念がある。オープンまで分類される馬世界は、私の様なボンクラでも何となく生きられる世界と違い、常に死が隣にいる厳しい世界だ。
サラブレッドとして生まれたお馬さんに「中間の微妙に下あたり」なんていう阿保な解答をする者はない。彼らは、勝たなければ明日が無いのだ。故に、全てのサラブレッドは頂点を目指している。
20世紀末の2000年。奇蹟の様な蹄跡をターフに刻み、王者の位置に登り詰めたテイエムオペラオー。
京都記念、阪神大賞典、天皇賞春、宝塚記念、京都大賞典、天皇賞秋、ジャパンカップ。一つでも獲れば名を語り継がれるこれらのレースを、オペラオーは独占した。
大衆はそんな彼を見て”世紀末に現れた覇王。”と讃え、その強さに平伏した。一方、馬場で競う馬達は、メイショウドトウを大将に決死の覚悟で、覇王に挑んだ。しかし、いつも僅かな差で押さえ込まれ、悔し涙を流す日々だった。
もしも、打倒オペラオーを目指す馬達が、私みたいなクズ野郎だったら「もうええわ。無理や無理や…。」と、不貞腐れていただろう。
立派なサラブレッドである彼らは違った。「もうええわ。お前の勝ちは。」と、執念の火にガソリンをぶち撒けて、掉尾の有馬記念で討つことを誓い合った。
2000年12月24日、第45回有馬記念。
20世紀最後のグランプリに挑んだのは16頭。戦況は、オペラオーVS15頭のライバルだった。
サシでやれば敵わない。ならば、道中は同盟を組んで奴を抑え込もう。そして最後の直線で、俺たちの誰かが栄光を手にする…。
実際、この様な示し会わせがあったとは巷間語られていないが、レースの様相はこの様な感じだった。
とにかく奴を楽に走らせるな。周囲を全員でガッチガチに固め、オペラオーの進路を消した。その執念の包囲網は、4角出口まで解かれなかった。彼らにとって、全てシナリオ通りだった。
全員が頂点を目指す競馬界の影。それは、強者が現れたら全力で引き摺り落とすことだ。この世界は強者を讃えたり、敬ったり、怖れたりなんてしない。明日、自分が生きるために全てのサラブレッドは、生命の全てを賭しレースに挑む。こう考えると、あからさまなオペラオー包囲網を形成したライバル達を恨むことが出来ない。彼らも明日を、優駿として迎えたかったのだ。
同盟が解散した最後の直線。老雄ダイワテキサスが抜け出し、大将のメイショウドトウが同門のメイショウオウドウを引き連れ、中山の急坂を駆け上がる。その間を割ろうとする覇王。
お前のシナリオはオレが破綻させる!
1番近くで苦汁を飲まされ続けてきたビッグストーン産駒のマル外ホースは、感情を剥き出しにして、オペラオーを必死に抑え込んだ。
喜怒哀楽。窮地を脱したいと願った時、これらの感情で最も威力を発揮するのは怒だと思う。窮地の状態を喜び、悲しんでも何も無い。楽しむなんてのは痩せ我慢の意地っ張り。以ての外だ。
覇王の怒りが轟いたのは残り150m付近。その圧倒的な強さで、オペラオーはライバル達が設えた壁を破壊した。お馬さんは優しい動物さん。という絵本で語られる物体像は、そこに存在しなかった。
鼻先を捻じ込み間を割る。怒れ。自分を窮地に陥れた者へ、そして王者として不覚を取った自分自身に怒れ。一完歩ごとに王者の四肢は、力強さを増していった。
怒れる王となり絶望を脱したオペラオーを待っていたのは年間無敗、古馬王道路線完全制覇という、誰も見たことのない未踏の頂だった。
時は流れて2017年。今年の有馬記念は、あの時と同じ12月24日の開催だ。
王者のオペラが高らかに響いた17年前の有馬記念。今年のレース後、競馬場に鳴り響く歌はコブシの効いた演歌か?それともまだ耳にしていない新曲か?どちらにせよジングルベルとサンタクロースが割って入る余地は無いだろう。
Merry Christmas !と騒ぎ散らかすのは、有馬の後でいい。