【牧場の歴史 vol.05】川越ファーム編

2020/01/28

カテゴリ:馬のはなし / Pacallaオリジナル

この【牧場の歴史】シリーズは、編集部がPacalla参加牧場さんに足を運び、一軒一軒取材をさせていただいて、各牧場の歴史を紹介していくコンテンツです。

高村牧場に続く第5弾は、G1を3勝し『2000年JRA賞最優秀3歳牝馬』『2001年JRA賞最優秀3歳牝馬』となったテイエムオーシャンを輩出した川越ファームを訪問。現代表である川越祐樹さんと、その父・川越敏樹さんにお話を伺いました。

川越ファームの歴史

(左)父・川越敏樹さん(右)現代表の祐樹さん

 

川越ファームとは

川越ファームの歴史

現在の川越ファーム

川越ファームは北海道の浦河地域に位置する、サラブレッドの生産牧場です。代表産駒にはテイエムオーシャンの他、アーリントンCを勝利したコスモセンサーおよび新潟3歳ステークスを勝利したパーソナリティワンがいます。

現在はテイエムオーシャン(2020年現在、22歳)をはじめとする9頭の繁殖牝馬と、テイエムオーシャンの母・リヴァーガールを功労馬として繋養しています。

 

川越ファームの歴史

≪本家から分家し、牧場経営へ≫

川越ファームの創業は昭和に入ってすぐの1932年(昭和7年)。初代の牧場主は敏樹さんから見て祖父にあたる川越三郎さんでした。当時、川越家は現在の成隆牧場(浦河地域にある生産牧場)の近くに本家を構えていました。しかし本家は事業に失敗し、旭川へ転居してしまいます。三郎さんは分家し、浦河の地に残って牧場を始めることにしたのです。

 

≪茅葺屋根の馬小屋から始まった川越ファーム≫

創業当時の厩舎は胸を張って『厩舎』と呼べるものではありませんでした。茅葺屋根の小さな2階建ての馬小屋で、5~6頭の馬を繋養していました。兼業農家が主流の中、当時にしては珍しく、三郎さんは馬に力を入れており、主に軍馬の生産を行っていました。今のように飼料メーカーもおらず、牧草ロールなんてものもありません。馬に食べさせるえん麦も自分たちで栽培していました。牧草もロールやコンパクトといったものはまだ存在すらしないため、馬小屋の2階にバラの牧草を運び、人力で踏み固めていたといいます。

敏樹さんは幼い頃から、餌やりや水やりなどの手伝いをしていたそうです。浦河地域は水道の整備がされておらず、近くの川まで馬を引いていき、水を飲ませなければなりませんでした。「今の馬たちは水道水の味にすっかり慣れ、川の水は飲まないよ(笑)」と敏樹さんは笑います。

 

≪アラブ馬の活躍と厩舎の新築≫

1956年(昭和31年)に初代の三郎さんが亡くなり、敏樹さんの父で、祐樹さんの祖父にあたる2代目の清夫さんが跡を継ぎました。昭和30年代の浦河地域では、稲作と乳牛、そして馬を扱う農業形態が一般的だったため、清夫さんもそれに倣った牧場経営を行います。

馬については、長い間アラブ種をメインに生産していました。1964年(昭和39年)に川越ファームで初めてサラブレッドを導入しましたが、これは浦河地域でも遅い方だそうです。その理由は、まだ中央競馬ではアラブのレースがあり、川越ファームの生産したアラブ馬たちがコンスタントに成績を残していたからでした。

川越ファームの歴史

昭和30年代の川越ファーム(乳牛の姿も)

また、茅葺屋根の馬小屋から現在の厩舎の原型となる厩舎ができたのも清夫さんの時代のことです。1970年(昭和45年)、敏樹さんが15歳になる頃に厩舎を新築。今も川越ファームの厩舎の左側半分は、この時の厩舎を活かした造りになっています。

(現在の厩舎が完成したのは1977年。敏樹さんが大学を卒業して実家に戻った直後に建てられました。ちょうど、2020年で最初に厩舎を新築してから50年を迎えます。)

川越ファームの歴史

1970年に新築された厩舎(当時)

川越ファームの歴史

1973年頃の厩舎の様子(当時)

川越ファームの歴史

現在の厩舎(右側を増築)

 

≪昭和47年、競走馬一本の牧場経営へ≫

1972年(昭和47)年頃、2代目清夫さんは稲作と乳牛から撤退し、競走馬一本に絞る決断をします。そして、この年に地方重賞の関東オークスで生産馬の『ヒメオール』が勝利し、競走馬の生産牧場として、幸先の良いスタート切ったように見えた川越ファーム。1977年(昭和52年)には大学を卒業して、当時23歳の敏樹さんも実家に帰ってきました。

しかし、馬の売却率が20~30%(現在は70%程度)だったという、昭和50年代の馬が売れない時代がやってきます。やっと馬が再び売れ始めたのは昭和60年代に入ってからです。ですが、敏樹さんが正式に3代目として牧場を継いだ1987年(昭和62年)、現代表の祐樹さんが生まれる1年前に事件は起きました。

1頭の繁殖牝馬からERVウイルスが検出されたのです。ワクチンを打っていたにも関わらず、この年に8頭生まれる予定だった仔馬のうち6頭が生まれませんでした。馬産地に好景気がやってきたというのに、川越ファームは売る馬がいなくなってしまったのです。敏樹さんの妻・容子さんは、牧場経営が厳しい状況だったため、借金を返そうと長く教師の仕事を続けました。この頃が川越ファームにとって一番つらかった時期でした。

ですが、この翌年に生まれた生産馬『アフターミー』が思わぬ活躍を見せてくれます。勝利には届かなかったものの、1991年のフジTVスプリングステークス(G2)を2着と善戦。皐月賞(G1)や日本ダービー(G1)に出走するまでの馬になったのです。敏樹さんはこのアフターミーもテイエムオーシャンと同じくらい心に残っている馬だといいます。

そして、ERVウイルスの影響が落ち着いて、数年がたった1996年。新潟3歳ステークス(G3)を『パーソナリティワン』が勝利し、川越ファームに初の中央重賞制覇もたらしました。人気もなく、気楽にテレビで観戦をしていた川越家は『まさか』のできごとに大喜び。その時に、パーソナリティワンが負かした相手には後のG1馬シーキングザパール、メジロドーベルがいるのですから驚きです。当然、お祝いのことなど考えてはおらず、容子さんはてんやわんやでした。

川越ファームの歴史

第16回新潟3歳ステークス(G3)の口取り写真

 

G1を3勝。名牝テイエムオーシャンの活躍

川越ファームの歴史を語る上で、欠かせない名馬といえば『テイエムオーシャン』でしょう。テイエムオーシャンは、現在も繁殖牝馬として川越ファームで繋養されています。

川越ファームの歴史 テイエムオーシャン

現在のテイエムオーシャン。2020年1月現在、リアルスティールの子を受胎している

川越ファームの歴史

テイエムオーシャンとドゥラメンテの子(撮影時・当歳)

テイエムオーシャンの母『リヴァーガール』は、カタオカファーム(新ひだか町静内豊畑)で生まれた馬で、現役時代は美浦の久恒久夫厩舎に所属していました。引退後、繁殖に上がる予定だったリヴァーガールですが、当時カタオカファームには他にも多くの馬がいたため、200万ほど買い取って欲しいという話があったのです。以前、敏樹さんが久恒調教師の運転手をしていた縁もあり、リヴァーガールは現役時1勝の馬でしたが久恒調教師のすすめで、川越ファームはリヴァーガールを購入することにしました。

川越ファームの歴史 テイエムオーシャンの母

テイエムオーシャンの母・リヴァーガール(撮影時・28歳)

リヴァーガールは華奢で小柄な馬だったため、敏樹さんはダンシングブレーヴのような雄大な馬格の種馬をつけたいと考えました。しかし、種牡馬になった当初のダンシングブレーヴは人気がとても高く、リヴァーガールの実績ではその希望は叶いませんでした。

しかし、蓋を開けてみると、もともと病気をもっていたダンシングブレーヴの受胎率は低く、評価が下がっていきました。そのため、希望してから3年後にリヴァーガールのもとへ合格通知が届いたのです。運よくリヴァーガールはダンシングブレーヴの子を受胎します。
そして生まれたのが後のテイエムオーシャン。小ぶりでしたが、真四角に均整がとれた馬で、それをテイエム技研株式会社の創業者であり、馬主の竹園正繼氏がたいそう気に入りました。これが竹園氏と川越ファームの最初の出会いです。竹園氏は生後1~2ヶ月のテイエムオーシャンを見て『この馬なら重賞が獲れる』と言ったそうです。

当時の敏樹さんは、さすが1~2ヶ月ではまだわからないだろうと思っていましたが、その後のテイエムオーシャンの活躍はご存じの通り。

2000年8月にデビューすると、新馬戦と500万下条件戦を連勝。阪神3歳牝馬ステークス(G1)を制すると、この年の最優秀3歳牝馬(現・最優秀2歳牝馬)に選ばれます。2001年は、チューリップ賞(G3)を4馬身差で圧勝し、桜花賞(G1)でも2着に3馬身差をつけて優勝。オークスでは敗れたものの、秋華賞(G1)でも華麗に勝利を収め牝馬二冠に輝きました。

 


G1を3勝という快挙を成し遂げたテイエムオーシャンですが、敏樹さんの心に一番強く残っているのは、初のG1勝利(阪神3歳牝馬S)の時のことです。勝利した直後は引っ切りなしにくるお祝いの対応や、祝勝会の対応に追われていてなかなか実感がわきませんでした。宝塚の宿に戻って、お風呂で一人きりになった時『やっとG1に手が届いた』『竹園さんの言う通りになった』『感無量』そんな気持ちが溢れてきたといいます。

 

コスモセンサーのアーリントンC(G3)勝利と4代目の決心

現代表の祐樹さんは1988年生まれの31歳。敏樹さんの次男として生まれました。3歳になる頃にはレゴブロックの馬を集めてレースをしたり、実況をしたりして遊ぶような子どもで、文字は馬名に使われるカタカナを最初に覚えるなど、幼い頃から本当に競馬が大好きでした。

川越ファームの歴史

川越ファーム、4代目祐樹さんが2歳の頃

もともと競馬は好きでしたが、自分も牧場で働こうと思ったのは祐樹さんが小学校6年生の時。テイエムオーシャンのチューリップ賞の応援のために現地へ出行き、その時の雰囲気を肌で感じ、『父の仕事は本当にすごい仕事だ』と思いました。初めて現地に応援に行ったG1では地鳴りのような歓声に感動を覚えたといいます。

また祐樹さんが大学3~4年生の頃には、生産馬『コスモセンサー』が活躍。コスモセンサーは2009年に新馬戦と500万下を勝ち、翌年の2010年にはアーリントンカップ(G3)を勝利。このコスモセンサーの勝利は、川越ファームにとってテイエムオーシャン以来9年ぶりの重賞制覇となり、競馬への思いは一層強くなります。

川越ファームの歴史

在学中にはイギリスのニューマーケットへ行き、本場の馬産に触れたことにより、一層夢に対する情熱が増しました。その後、大学を卒業した祐樹さんは川越ファームに戻り、2019年5月に正式に跡を継ぎました。

 

これからの川越ファーム

最後に3代目敏樹さんから祐樹さんへのエールを。そして4代目祐樹さんにこれからの川越ファームについて伺いました。

川越ファームの歴史

祐樹さんにエールを送る敏樹さん

「時代もあり、私は長男だから…という理由で牧場を継ぎました。ですから、自分の息子たちにはそういう跡の継がせ方はしたくないと考えていたんです。でも、競馬が本当に好きで息子が跡を継いでくれるというのはとても嬉しいことですね。
ただ、生き物を扱っている以上、どんなに頑張ってもすべてがうまくいくわけではありません。景気も今のように良い時代が続くわけでもありません。そういう時のために、常に身を引き締めて、今のうちにしっかり力をつけておいて欲しいと思います。慎重にならなければならない時、勝負に出なければならない時。そういう見極めをしっかりと。まだ息子は若いから、どうしても勝負に出たがることが多いんでね(笑)」(3代目・敏樹さん)

川越ファームの歴史

これからの川越ファームについて話してくれた祐樹さん

「一番の夢は、僕は誕生日がダービーに近いので、自分の誕生日にダービーを勝つことです!牧場経営の面では、小さすぎず、大きすぎず、すべての馬に自分の目がきちんと行き届くような牧場を作っていきたいですね。馬主さん調教師さんから『馬を預けたい』『馬を買いたい』と言ってもらえる牧場を目指しています。

また、父がテイエムオーシャンを生産して、僕が稼業を継ぎたいと思ったように、僕もテイエムオーシャンのような馬を生産して、自分の息子にも跡を継ぎたいと思ってもらえるような、そんな牧場をつくっていけたら」(4代目・祐樹さん)

祐樹さんの息子・祐誠くん(4歳)

テイエムオーシャンという名馬を輩出した父・敏樹さんとその背中を見て育ち、幼い頃か競馬が大好きだった祐樹さん。川越ファームにお邪魔して、父子の素敵な関係を垣間見ることができました。新生、川越ファームはまだ始まったばかり。これからの活躍に目が離せません!

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