【牧場の歴史 vol.03】岡田スタッドグループ編
2019/07/04
カテゴリ:馬のはなし / 色々なはなし / 人のはなし / Pacallaオリジナル
この【牧場の歴史】シリーズは、編集部がPacalla参加牧場さんに足を運び、一軒一軒取材させていただいて、各牧場の歴史を紹介していくコンテンツです。
浜本牧場さんに続く第3弾は、競馬ファンの間ではおなじみの岡田スタッドグループを訪問。今回は岡田スタッドグループの代表・岡田牧雄さんにお話を伺うことができました。
岡田スタッドグループとは
現在の岡田スタッド
岡田スタッドグループは北海道日高郡、沙流郡でサラブレッドの生産・育成をしている牧場です。
戦後、現在の代表である岡田牧雄さんの父・蔚男(しげお)さんの代に『岡田蔚男牧場』という名前で創業。1984年に現在の『岡田スタッド』へと改称されました。
オーナーブリーダーとしても活躍する岡田スタッドグループは、2019年6月現在、現役競走馬を約250頭、繁殖牝馬140頭を有し、その規模は拡大を続けています。
岡田スタッドグループの歴史
≪淡路島から北海道へ≫
岡田家のルーツは淡路島にあります。もともとは武士の家系で、馬とは何の関係もなく、殿様の食事係・毒味係だったそうです。明治時代のはじめ頃、淡路島にいた稲田氏の一員として北海道に入植してきました。
≪雑貨商から競走馬の生産牧場へ≫
岡田スタッドの牧場としての原点は、現代表・牧雄さんの祖父・睦次(ムツジ)さんの時代までさかのぼります。睦次さんは、雑貨商として働く傍ら、牧場経営を始めました。今でも岡田家の本家にはこの牧場の跡地が残っているそうです。
競走馬の生産を始めたのは1938年頃、牧雄さんの父・蔚男さんが20歳なったときのことです。その後、第二次世界大戦を迎え、蔚男さんは陸軍の軍曹として満州に赴任します。そこで軍馬を管理する役職につきました。軍時代の部下には後に調教師となる碑田敏男さんらもいたといいます。
サラブレッドの生産を本格的に始めたのは、満州から帰ってきた1947年。その後、次男であった蔚男さんは、分家し、岡田スタッドグループの前身である『岡田蔚男牧場』を創業しました。
岡田蔚男氏・鬼軍曹と呼ばれる厳しい人だったという
≪結核に苦しんだ岡田家≫
蔚男さんは長女・洋子さん、長男・繁幸さん、次男・牧雄さん、次女・悦子さんと、4人の子どもに恵まれました。後に、牧場を継ぐことになる牧雄さんが生まれたのは1952年のことです。蔚男さんは息子2人をいつも競馬場につれていき、勝馬を予想させていたそうです。この頃から牧雄さんは、父親を喜ばせたい一心で競馬の勉強をしていたといいます。
写真右)今回お話を伺った牧雄さんの幼少期
岡田蔚男牧場は敷地8ヘクタール、繁殖牝馬が12頭と小さな牧場ではありましたが、1973年にはミホランザンが初重賞、朝日杯3歳ステークスを勝利。翌年1974年もゴールドロックがダイヤモンドステークスで勝利します。
その一方で、岡田家は蔚男さん、繁幸さん、牧雄さんの3人とも『結核』に悩まされていました。特に、次男の牧雄さんは重度の結核で、子どもの頃にも6年の入院をしていました。1974年、大学1年生の終わりには医師から再び入院するように言われ、自分の死を考えるようになったといいます。『どうせ死ぬのなら、アメリカに行ってから死にたい』と、牧雄さんは渡米し、ケンタッキー州のノルマンディーファームで働くことにしました。
≪岡田蔚男牧場から現在の岡田スタッドへ≫
驚いたことに、渡米してから牧雄さんの体調はみるみるうちに回復。最初の1年は生産を学び、翌年1年はカリフォルニア州のトミー・ドイル厩舎で、騎乗や調教技術を学びました。そして、ドイル氏から厩舎の跡を継ぐように言われるまでになったのです。
当初、岡田蔚男牧場は、長男の繁幸さんが継ぐ予定だったため、牧雄さんはアメリカの調教師資格を取ったり、グリーンカードを取得したりするなど、ドイル氏の厩舎を継ぐ準備を進めていました。
しかしその頃、日本では蔚男さんと牧場経営の方針が合わず、長男の繁幸さんが自ら牧場を立ち上げる形で独立(現・ビッグレッドファーム)。次男である牧雄さんが日本に呼び戻され、岡田蔚男牧場を継ぐことになりました。
1981年頃には牧雄さんが岡田蔚男牧場を引き継ぎ、1984年には、牧場名を『岡田スタッド』と改称。新たな歴史の幕開けとなりました。牧雄さんが32歳のときのことです。
牧雄さんと息子さんたち。1989年頃
育成牧場、オーナーブリーダーとして
岡田スタッドの創業当時、競走馬の育成は各競馬場や美浦・栗東で行われていたため、日高に育成牧場はありませんでした。馬が飛ぶように売れた時代ですから、日高の牧場はほぼ100%がマーケットブリーダー。ましてや、生産者が自分で馬を買うという発想自体がありませんでした。
しかし、牧雄さんはお世話になっていた馬主たちとのコミュニケーションの中で、『これからの生産者は育成を行い、競走馬を所有し、自分で競馬をやっていく時代になる!』と思い、いち早く動きはじめます。こうして育成牧場、オーナーブリーダーとしての岡田スタッドがスタートしました。
岡田スタッドの窮地を救った『マイネルダビテ』
1986年、岡田スタッドは窮地に陥っていました。
当時は繁殖牝馬が10数頭ほどで、この年も10頭の出産を予定していたそうです。しかし、ERV(馬鼻肺炎ウイルス)により9頭が流産。唯一の収入源であった翌年の販売代金が無くなり、倒産の危機に。※1
この絶体絶命の状況を救ったのが、今も岡田スタッドで功労馬として繁養されている『マイネルダビテ』です。マイネルダビテは、オーナーブリーダーを志した牧雄さんが、この前年に購入した馬でした。
現在のマイネルダビテ。2019年6月現在35歳で、もうすぐシンザンの長寿記録を更新。老齢とは思えない馬体で、放牧地で走ることもあるそう
マイネルダビテはオーナーブリーダーとして、牧雄さんが初めて自分の名義でレースに出走させた馬。牧場敷地内の小さな馬場で、自ら調教をつけ、この馬に牧場の命運をかけたといっても過言ではありませんでした。
マイネルダビテの調教をしていた馬場の跡地 ※2
その期待に応え、マイネルダビテは、デビューして2戦目で勝ち上がり、当時の函館3歳ステークスでも手堅く2着。1987年には共同通信杯を優勝するなどの活躍を見せました。この時の賞金、約三千万円が岡田スタッドの窮地を救ったのです。※3
現役時代、パドックでのマイネルダビテ
マイネルダビテが窮地を救ってくれた後、オーナーブリーダーとしての道を歩んでいた岡田スタッド。2000年を過ぎた頃、お金がない中で、無理に牧場を拡大しようとした時期がありました。その結果、所有馬の預託料で2ヶ月連続のマイナス収支となってしまい、経営を圧迫。この頃の牧雄さんは、経済的な面で追い詰められた日々を送っていました。
しかし、またもや岡田スタッドは馬たちに救われることになります。2007年の有馬記念で、マツリダゴッホが岡田スタッド史上初のG1勝利をもたらし、2010年にはスマートファルコンがJBCクラシック(G1)で勝利を飾りました。
その後も、サウンドトゥルー(2016年チャンピオンズC・G1優勝)やスマートレイアー(2017年京都大賞典・G2優勝)といった馬たちが次々に勝利を上げ、牧場経営は軌道に乗っていきました。
『本当に苦しいときは、いつも馬たちが助けてくれた』と、牧雄さんは話します。
(左)マツリダゴッホ(右)スマートファルコン
(左)サウンドトゥルー(右)スマートレイア―
これからの岡田スタッド
最後に、『岡田スタッドグループのこれから』について、また『次世代に願うこと』を、牧雄さんにお伺いしました。
「馬の所有数が少ない時代は、期待していた1頭が走らなかったとき、走れなかったときに精神的にも経済的にも受けるショックがとても大きく、苦しかった。本当に眠れない日々が続きました。
そこで、馬の数を100頭以上に増やせば、名馬にはなかなか当たらないかもしれないけれど、ある程度は走る馬が出てくるし、預託料で苦しむこともなく、経済的にも安定すると考えるようになりました。私は、散々お金のことで苦労をしてきたので、これからは経済的なことではもう頭を悩ませたくありません(笑)。もう借金をしない経営をしていきたいですね」
「次世代には、セリなどで馬を見る目をしっかり養ってほしいと思います。今の若い人たちには、良いセンスを持っていると感じることが多くあります。ですが、セリ場に来ない人がとても多い。セリに足を運び、全頭をチェックし、名簿にメモする。そして、数年後に結果を必ず確認する。そういった、地道な馬との向き合い方を大切にして欲しいと思いますね。
また海外では、オーナーブリーダーが競馬界をリードしています。私たちの世代では、生産者というのは、とても意見が言えるような立場ではなかった。ですが、今は日本でも、生産者がJRAにも馬主にも認められている時代です。次世代の若者たちには、海外のように日本でも生産者がオーナーブリーダーとして成長し、発言力持つことを期待したいです。
馬の本質を見ることができるのは生産者だけ。私はそう思っています。馬主に対しても、プロのパートナーとして、しっかり自分の意見を言えるような、そんな生産者でいてほしい。競馬界の未来を見据え、業界を引っ張っていける存在になって欲しいと願っています」
オーナーブリーダーとして、日高のパイオニアであり、今も走り続ける岡田スタッドグループ。新しいことに取り組んでいく、その革新的な印象の裏側では、地道に、真摯に、馬と向き合っていく…という、岡田スタッドグループの信念を見ることができました。この信念は、次世代にも脈々と受け継がれていくのでしょう。
※1)この時は、周りの牧場さんたちも心配してお酒を持って、よく来てくれたそうです。『牧雄は大丈夫!10年頑張れば元に戻せる!』と元気付けに声を掛けてくれたが、内心は『10年も復活できないのか…。』と思っていたそうです。
※2)当時、マイネルダビテに自ら調教をつけるだけでなく、牧雄さん、兄の繁幸さん、錦岡牧場の土井さんの3人で集まり、新和ダービーと銘打ったレースを開催したこともあったそう。その時に走ったマイネルダビテ、コスモダビンチ、ヤマニンアーデンの3頭が1987年の日本ダービーに出走しているというから驚きです。
※3)マイネルダビテが皐月賞に出走した時は『32歳の若き生産者がクラシックに殴り込み!』とメディアにも取り上げられていたが、※1のとおり牧場の内情は火の車で本当に大変だったそうです。