【牧場の歴史 vol.02】浜本牧場編

2019/03/15

カテゴリ:馬のはなし / 色々なはなし / 人のはなし / Pacallaオリジナル

この【牧場の歴史】シリーズは、編集部がPacalla参加牧場さんに足を運び、一軒一軒取材をさせていただいて、各牧場の歴史を紹介していくコンテンツです。

大北牧場さんに続く第2弾は、2004年安田記念を勝ったツルマルボーイでおなじみの浜本牧場さんにお邪魔しました。 

今回は浜本牧場の会長である濱本俊則さん、俊則さんの息子であり現社長の泰彰さん、孫にあたる雅俊さんの親子3代にお話を伺うことができました。

 

浜本牧場とは

 浜本牧場厩舎と広い放牧地

浜本牧場は北海道の厚賀地域に位置するサラブレッドの生産牧場です。

2019年3月現在は本場の他、分場を3カ所に有し、夏には4つ目の分場をオープン予定。27頭の繁殖牝馬を繋養し、現在は会長・社長・雅俊さん他スタッフで広大な敷地牧場を切り盛りしています。

代表産駒には前述のツルマルボーイ、2008年と2009年のアイビスサマーD(G3)を2連覇したカノヤザクラ、2016年の阪神C(G2)を勝ったシュウジなど、重賞馬が多数名を連ねます。

今回は上記の産駒とともに、浜本牧場の歴史を振り返りたいと思います。

 

浜本牧場の歴史

《愛媛から北海道へ》

濱本家は会長俊則さんの祖父の代、俊則さんの父・波太郎さんがまだ小さい頃に愛媛(淡路)から北海道に集団入植。当時は現在牧場がある厚賀ではなく、静内に住んでいました。しかし火事に遭い、それをきっかけに現在の厚賀に住居を移したそうです。

 

《兼業農家としての創業》

牧場を創業したのは波太郎さんの代ということですから、現社長の泰彰さんの代で三代目。浜本牧場の創業年は定かではありませんが、俊則さんが小学校に上がった1929年には、もう馬を曳く手伝いをしていたとのことなので、その頃(戦前)に創業されたと考えられます。

当時、厚賀にはまだ牧場が2~3軒しかなく、浜本牧場は畑・稲作・馬の生産をする兼業農家だったそう。馬は農耕馬とアラブ種、天皇陛下への献上馬なども生産していました。創業時は今よりも平地が少なく、平地は搾乳が必要な牛の飼育に優先して使われていました。そのため馬の放牧は山の中でしていたといいます。また戦時中は農地法の観点から放牧地を広げることが難しかったそうです。

浜本牧場 親子3代左から会長・俊則さん/社長・泰彰さん/4代目雅俊さん


《浜本牧場史上最大の困難》

また会長・俊則さんが社長のときには日高で『流産菌』が流行し、浜本牧場史上最大の困難に見舞われました。現在は抗体をつくるワクチンなどが開発されていますが、当時は薬もなく、俊則さんはたまたま隔離されていた自分の馬を、近所で馬を飼育していない家の倉庫に急いで避難させました。
しかし当時5頭いた繁殖牝馬のうち無事出産を迎えられたのはたったの1頭。当時の馬はまだアラブでしたが、俊則さんが身を削って飼養していた馬たちで、大きなショックを受けました。

※流産菌とは家畜伝染病の一種で馬などを介して伝染するウイルス、菌の総称。流産菌が流行すると生産が全くできなくなり、倒産する牧場が多発する事態に陥る為、生産界では非常に恐れられています。お産の時期に牧場見学が中止になるのもこれが理由のひとつです。

 

《海外馬の輸入とサラブレッドの生産》

その後、前述の困難を乗り越えた俊則さんは新たな挑戦に向かいます。1962年には当時いち早く繁殖に海外馬を取り入れました。ミスリトールドという牝馬でしたが、仔馬は産まれるものの体が弱い個体が多く、10頭中9頭が競走馬になることは叶いませんでした。試行錯誤を繰り返すも売れたのはたった1頭。当時は今ほど研究が進んでいませんし、簡単に情報を手にすることもできません。失敗を恐れず、自ら挑戦していくしかない時代です。浜本牧場を有限会社にしたのもこの頃。当時、牧場を有限会社化しているところはまだ少なく、これもかなり時代を先取りした選択だったといえます。

 

《ミスリトールド産駒、キクノツバメの勝利》

ミスリトールドを海外から連れてきて10年ほどたったある日。俊則さんの挑戦はついに実を結びます。ミスリトールドが産んだ子のうち、唯一競走馬となった『キクノツバメ』が1973年に後の重賞(G3)となるクイーンCを勝利したのです。栗毛のきれいな牝馬が、浜本牧場に大きな勝利をもたらしました。俊則さんは嬉しさのあまり、ご近所の十数軒を招待し祝勝会とボーリング大会を行ったことが忘れられないといいます。

また浜本牧場はアラブからサラブレッドの生産へ切り替えを行ったのも、とても早い時期でした。JRAでアラブ競馬が廃止されたのが1995年。しかし浜本牧場では1975年頃にはサラブレッドの切り替えを始め、その頃にはサラブレッドとアラブが9:1の割合となっていました。

そして1977年には現社長の泰彰さんが大学を中退。家業を継ぐために牧場に戻り、浜本牧場の新たな歴史の幕開けとなりました。

 

2004年安田記念制覇『ツルマルボーイ』につながる数々の縁

ツルマルボーイ(左)ツルマルボーイ 2004年安田記念(右)ツルマルガール 1994年スイートピーS

浜本牧場史上、最高の勝利をもたらしたのは2004年の安田記念を勝ったツルマルボーイ。その始まりは『ジャヌワ』という1956年生まれの牝馬までさかのぼることになります。浜本牧場の創業者で、現会長の父にあたる波太郎さんが社長を務めていた時代のことです。

波太郎さんは青森の牧場から桜花賞とオークスを勝った馬の子どもを譲ってもらえるという話をもらい、大枚をはたいて厩舎を建てました。しかし、手違いでその2頭が別の牧場に行ってしまうという不運に見舞われます。そこで代わりにやってくることになったのが当時『ゲシー』という牝馬を身ごもっていたジャヌワです。

ジャヌワは目立った競走成績もなく、脚に内向も出ているような馬でしたが、仔馬には一切遺伝しませんでした。ジャヌワは10頭以上の子を産みましたが、思うような結果を残せず、最終的に残った産駒はゲシーのみでした。その後、ゲシーの子で1978年に生まれた『エプソムガール』が4歳牝馬Sを勝ち抜きオープン馬に。このエプソムガールが橋口弘次郎調教師と浜本牧場の縁をつなぐことになります。

浜本牧場はエプソムガールの5番仔のツルマルタカオーがセリで馬主の鶴田任男氏に購入され、鶴田氏に帯同していた橋口調教師と顔見知りになりました。その翌年エプソムガールがサッカーボーイの1番仔を産み、当時の雑誌などで特集されました。その記事が、偶然にもサッカーボーイが好きだった橋口調教師の目にとまり浜本牧場に連絡をくれたそうです。

ツルマルタカオーの妹にもあたる仔馬だということで、その仔馬は鶴田氏の手に渡ります。そして『ツルマルガール』と名付けられ橋口厩舎に入厩します。

※エプソムガールはツルマルガールの他、日中新聞杯(G3)を制したツルマルガイセンなども輩出

ツルマルガールは朝日チャレンジC(G3)の優勝という戦績を残し、繁殖入り。チーム橋口厩舎で配合しようということになり、同タイミングで引退した橋口厩舎のダンスインザダークの子を受胎。後のG1馬『ツルマルボーイ』を出産します。ツルマルボーイが橋口厩舎に入厩したときには、同じダンスインザダーク産駒がたくさんいたため、その中でいちばんダメそうだと言われていたというから驚きです。

ツルマルガールはツルマルボーイの他、ツルマルファイターやツルマルシスター、ツルマルオジョウといった産駒を輩出。中でもツルマルボーイの全妹であるツルマルシスターは、2歳新馬戦を3着、2歳未勝利戦を1着、野路菊S(OP)を後方一気で圧勝します。KBSファンタジーS(G3)でも1番人気に推されるなど(結果は7着)順調に歩みを進めていました。

しかし、初のG1タイトル挑戦を予定していた2003年の阪神JS(G1)を前に疝痛を起こし、出走を回避。同年12月10日に急性腹膜炎を発症し、回復が難しい状況となり安楽死処分となってしまいます。浜本牧場を含む関係者はもちろん、ファンからもショックの声が多く聞こえました。

その頃、兄ツルマルボーイは同年2003年にG1レース5つに出走するも2着3回、4着2回、15着1回とG1タイトルに惜しくも手が届かないレースが続きました。しかし、妹の死から半年後2004年6月に安田記念を制し、念願のG1タイトルをつかみ取ります。

ツルマルボーイはツルマルシスターの死に沈んでいた浜本牧場に、思いがけない、そして大きなサプライズプレゼントを贈ってくれました。

安田記念 ツルマルボーイの記念品ツルマルボーイが安田記念を勝利した際の記念品が並ぶ

現在はツルマルボーイの妹、ツルマルオジョウの子であるジェイケイオジョウが今年から繁殖入りし、浜本牧場でその血をつないでいます。

ジェイケイオジョウ(左)3歳未勝利戦優勝時(右)繁殖牝馬として浜本牧場に戻ってきたジェイケイオジョウ

 

史上初!2008・2009年アイビスサマーD連覇『カノヤザクラ』

アイビスサマーダッシュ連覇カノヤザクラ2008年アイビスサマーD、セントウルSを勝利したカノヤザクラ

ツルマルボーイに続く、浜本牧場生産の優駿としてはアイビスサマーD(G3)を2連覇した『カノヤザクラ』を思い起こす人も多いでしょう。カノヤザクラは2004年に生まれた牝馬。同じ時期に産まれた他の馬と比べればよい方ではあったものの「この馬は走るぞ」というイメージは持てなかったといいますが、ツルマルガールの一件からタッグを組むようになっていた橋口厩舎に入厩することになりました。

しかし、蓋を開けてみるとデビュー後は2歳新馬戦で1着。続くかえで賞では1番人気に推され連勝、3歳時には勝ちこそ逃したものの好走が続きました。2008年4歳になると淀短距離S、テレビ愛知OP、CBC賞(G3)と出走するも、思うような成績を残すことができなくなっていましたが、新潟競馬場の直線1000mを走るアイビスサマーDで小牧太騎手と初タッグを組むと54秒2の好タイムで初の重賞勝利。同年セントウルS(G2)も再び小牧騎手の騎乗で1馬身4分の1の差をつけて勝利しました。

翌年2009年、5歳初戦はCBC賞に出走するも大敗。ですが、前年優勝したアイビスサマーD(G3)で史上初の連覇を達成します。その当時は引退したディープインパクトの種付け料がまだ600万円程度だったため、陣営はこの年でカノヤザクラの繁殖入りさせ、ディープインパクトとの配合を検討していましたが、アイビスサマーDの3連覇を懸けて現役の続行が決まりました。

アイビスサマーダッシュ連覇カノヤザクラアイビスサマーDを2連覇したカノヤザクラ

しかし2010年のアイビスサマーDでその悲劇は起こります。馬群の中にいたカノヤザクラは前の馬を無理にかわそうとし、ゴール手前で左第1指関節を脱臼。予後不良の判断が下され、その日新潟競馬場を訪れていた泰彰さんは診療所でその最期を看取りました。このときの浜本牧場のショックは計り知れず、泰彰さんは「今でも新潟競馬場には行きたくない」といいます。

現在はカノヤザクラの全妹カノヤトップレディがその血をつなぎ、2018年はヘニヒューズの子を受胎。元気に生まれ育つことを皆が願っています。

カノヤザクラとカノヤトップレディ(左)カノヤザクラ/(右)ヘニヒューズの子を受胎したカノヤトップレディ

 

並みいる強豪の中、2016年阪神C制覇!現役重賞馬『シュウジ』

シュウジ(左)小倉2歳S(G3)、報知杯中京2歳S(G2)を勝ったシュウジ

カノヤザクラの死から5年がたった2015年。浜本牧場に新たな光が差し始めました。デビュー前の調教で2週連続古馬を負かし、デビュー戦を迎える馬が登場するのです。その名は『シュウジ』。

2006年頃、泰彰さんはアメリカ・ケンタッキー州のセリに参加していました。その初日の最後から2番目出てきた馬、それが後のシュウジの母となる馬でした。

アメリカのセリは夕方暗くなる時間まで開催されており、正直馬体などはよく見えなかったそう。お客さんもまばらにしかおらず、当時種付け料が非常に高額だったキングマンボの子が2万ドルからのスタート。これはお買い得と手を挙げ4万ドルで落札したのがカストリアでした。こじんまりした固い馬という印象、脚も少し曲がっていて、明るいところで見たら買わなかったかもしれないといいます。

カストリアの子は種牡馬がどんな馬でも、母にそっくりな仔馬が産まれるそうです。そんなカストリア、繁殖牝馬として2年目の2008年にはTV西日本北九州記念(G3)を勝利したツルマルレオンを産み、2013年にはシュウジを出産します。

シュウジの母カストリアシュウジの母、カストリア。Pacalla 編集部に顔を見せに来てくれました

前述の通り、デビュー前から期待がかかっていたシュウジは1番人気で2歳新馬戦を快勝。続く報知杯中京2歳Sも勝利しオープン馬となります。小牧太騎手から岩田康誠騎手へ乗り替わりとなった初重賞出走、小倉2歳S(G2)では出遅れながらも2馬身2分の1差つけ勝利、3連勝で重賞初制覇という活躍を見せました。

翌年3歳となった2016年春は調子を落としたものの、徐々に復調。2016年末の阪神C(G2)では1400mという距離の不安に加え、ミッキーアイルやイスラボニータといった強豪がいる中、スタートはよくありませんでしたが、ゴール前で豪快に差し切って勝利をつかみました。

暗がりの中で競り落としたカストリア。そこからシュウジのような馬につながっていったことに、浜本牧場の皆さんも驚きを隠せなかったそうです。

カストリア産駒はシュウジの他、牝馬ラミエルがかささぎ賞(500万下)を勝利。2019年3月10日に行われたフィリーズレビュー(G2)では惜しくも掲示板を逃しましたが、今後の活躍が期待されています。

シュウジ阪神Cを勝利したシュウジ

 

これからの浜本牧場

最後に現社長の泰彰さんと4代目の雅俊さんに現在の浜本牧場、これからの浜本牧場についてお伺いしました。

浜本雅俊さん浜本牧場4代目 雅俊さん。現在は現場の一切の業務を任されている

「浜本牧場は本場のほか3つの分場があり、27頭の繁殖牝馬の繁養をしています。2019年の夏にはもう1つ分場を増やす予定です。それに伴い、人材の確保はもちろんのこと、作業の機械化・効率化を進めています。寝藁上げなども人力では行いません。スタッフが増えても体力に頼るのではなく、できる限り肉体的な負担を減らして、従来の牧場のイメージと違った仕事の仕方、近代化した牧場を目指していければと考えています」(雅俊さん)

現社長の泰彰さん。現在は経営業務や事務まわりを担当

「強くなるのはその馬自身のちから。広いところに放牧し馬同士が切磋琢磨して、強くなっていくんです。ですから、私たちはその馬が成長するための環境を整えてやることが大事だと考えています。放牧地を大きく、放牧時間を長く…を昔から心がけていますし、それは今も昔も変わりません。

ですが時代によって柔軟に変化していかなければならない部分もあります。私の父の代は生産手法が確立されていない時代でもあり、思いついたことを人より先に実践すること、試行錯誤していくことが大事だったと思います。

しかし今の時代は、『他と違うこと』というのが昔に比べると限られている時代です。ですから、なにか目新しいことをやっていくというよりも、馬にとって悪くないこと、『間違ったことをしない』ことが大切だと思っています。これからもその時代に合った『間違っていない』選択をしていければ」(泰彰さん)


 

愛媛から入植し、兼業農家を経て今やたくさんの名馬を輩出する浜本牧場。今回は親子3代、俊則さん・泰彰さん・雅俊さんからこれまでの浜本牧場、そして現在・未来の浜本牧場についてたっぷりお話をお伺いしました。

ツルマルボーイが安田記念を勝ったとき、競馬場にいた泰彰さんはこれまでの結果から、また2着か3着だろうと思って油断をしており、うっかり同じ帽子だった他の馬を見ていたという逸話も飛び出すなど、浜本牧場さんらしい(⁈)エピソードもたくさん聞くことができました。(ちなみにそのとき、自宅にいた俊則さんは鳴り止まない電話の対応に追われたことが一番印象に残っており、雅俊さんはアメリカ留学中で爆睡中だったそう笑)

取材に伺わせていただいた時期はちょうどお産のシーズン。今年も浜本牧場から新たな名馬が誕生することを期待しています!

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