【牧場の歴史 vol.01】大北牧場編

2019/01/22

カテゴリ:馬のはなし / 色々なはなし / 人のはなし / Pacallaオリジナル

この【牧場の歴史】シリーズは、編集部がPacalla参加牧場さんに足を運び、一軒一軒取材をさせていただいて、各牧場の歴史を紹介していくコンテンツです。
第1弾は、1月22日に命日を迎えるマイルの女王、フーちゃんこと『ノースフライト』が生まれた大北牧場さんにお邪魔し、当牧場4代目・取締役専務の齋藤善厚さんにお話を伺いました。

 

大北牧場とは

大北牧場の歴史
大北牧場は北海道浦河郡浦河町に位置する生産牧場。
2019年現在は本場の他、分場を3カ所に有し、6名ほどのスタッフで毎年20頭強の繁殖牝馬を繋養しています。その歴史は戦前までさかのぼると言われている老舗です。

代表産駒には1965年に桜花賞を制したハツユキ、1989年にオークスを制したライトカラー、1994年に安田記念・マイルCSを制したノースフライト(大北牧場自己所有馬)と、名牝たちが名を連ねています。

今回はこの3頭の活躍とともに、大北牧場の歴史を振り返りたいと思います。

 

大北牧場の歴史

大北牧場の歴史
大北牧場は1935年に創業したといわれていますが、大北牧場の4代目にあたる齋藤善厚さんによると、その真偽は不明であると言います。

大北牧場は初代牧場主・斎藤善太郎さん(善厚さんからみると曽祖父)によって戦前に創業。当時はサラブレッドではなく、農耕馬などの生産を行っていたそうで、馬の生産だけではなく米農家でもあったようです。

2代目斎藤善次郎さんの代では、当時はまだアラブ種のレースが多く行われる中、大北牧場はアラブ種の他、サラブレッド生産にいち早く着手し、1962年には後に桜花賞を制することとなるサラブレッドのハツユキを生産します。
このG1馬の誕生により、サラブレッドの生産牧場としての成功の道筋が見えたように思われました。しかしハツユキが桜花賞馬になった翌年、善次郎さんが若くして亡くなられるという不幸に見舞われます。

今回取材をお引き受けいただいた4代目善厚さんの父である、3代目斎藤敏雄さんは、先代から牧場の歴史や技術・知識を得る機会のないまま、高校卒業と同時に牧場を継ぐという大変な苦労をすることになります。前述の創業年がはっきりとしないのも、そのためだったのです。

当時、右も左もわからなかった敏雄さんは周囲の牧場の先輩方に頭を下げ、技術や知識を習得していったと言います。その奮闘の甲斐があり、敏雄さんの代で大北牧場は1989年ライトカラー、1994年ノースフライトという2頭のG1馬を輩出するという快挙を成し遂げました。

ノースフライトは昨年、2018年1月22日にその命を終えましたが、現在も大北牧場ではノースフライトの孫の世代にあたる繁殖牝馬たちが、その血を繋いでいます。

大北牧場の歴史ノースフライトの孫たち

 

大北牧場の名馬① 1965年 桜花賞馬『ハツユキ』

大北牧場の歴史 ハツユキ
1965年の桜花賞を制したハツユキは、戦前から続く大北牧場の歴史の中でも有数の活躍馬です。

ハツユキの父は、ソロナウェーという1946年生まれのアイルランドから輸入されたスピード型・マイル戦向きの種牡馬で、現役時代にはアイリッシュ2000ギニーなど9戦6勝の成績を残しました。
ソロナウェーがアイルランドで種牡馬として繋養されていた頃の主な産駒には1000ギニー、オークスのスイートソレラやアイリッシュ2000ギニーのルセロらがおり、1958年に日本で繋養されてから、ハツユキの他にダービー馬のキーストンやテイトオー、オークス馬のヤマピットやベロナらを出し、1966年にはリーディングサイアーとなりました。
母ボジョーは現役時代1勝という牝馬でしたが、当時流行していたブランドフォードの3×4のクロスを持ち、配合的には一目置かれる存在でした。

そのソロナウェーとボジョーの間に生まれたハツユキは、2歳11月に新馬勝ちを収めましたがその後は惜敗が続き、2歳シーズンを終えた時点で3戦1勝の戦績でした。ですが3歳から加賀武見騎手が手綱を取るようになると成績が上向き、福寿賞とシクラメンステークスを見事に連勝。

そして初の関西圏での競馬となったオープン戦こそ4着に敗れましたが、中1週で挑んだ桜花賞ではこれまでの実績を買われ単勝6.7倍の3番人気に支持されました。
23頭がひしめく中14番枠のハツユキは好スタートを決め、逃げの戦法に出ます。道中は馬場の内側を避けて、外目を走り直線へ向け脚を温存したハツユキ。直線は苦しくなり、内にもたれながらも序盤のリードを活かして3馬身半差で優勝、名誉ある桜花賞馬の座に輝きました。

次走4歳牝馬特別では不良馬場の中を快勝し、桜花賞とオークスの2冠への期待が高まるも、ハツユキはオークスの出走を回避。その後現役を引退し繁殖に上がり、生まれ故郷の大北牧場で第二の馬生を送ることになります。

繁殖牝馬ハツユキは多産で実に13頭もの産駒を世に送り出しました。中でも、1971年にロムルスとの間に生まれたヤマキチカラはオープン特別の紅葉杯を含む7勝を挙げる活躍を見せました。

ハツユキから続く血は現在も途絶えずに残っており、園田所属のフレアリングデットや門別所属のフレアリングダイヤといった現役馬の血統表にその名が残されています。

 

大北牧場の名馬② 1989年オークス馬『ライトカラー』

大北牧場の歴史 ライトカラー
大北牧場3代目の敏雄さんが跡を継いで20年近くが経った1986年、後のオークス馬となるライトカラーが誕生しました。
父ヤマニンスキーは現役時代、準オープン勝ちの成績に留まった馬でしたが、父ニジンスキー、母の父バックパサーというマルゼンスキー(※1)と同じ血統背景を買われ、マルゼンスキーの代用種牡馬として種牡馬入り。ライトカラーの他にも皐月賞馬ヤエノムテキなどを輩出し、内国産の人気種牡馬としての地位を確立した馬でした。
産駒はどちらかといえば芝よりダートの勝ち星が多く、中距離レースに適性を示すものが多かったようです。
血統的にはマルゼンスキー同様Flaming Page≒Buckpasserの2×2(Menow、Bull Dog、Blue Larkspurといった血が共通)を持ち、胴長で力のいる馬場を苦にしないタイプが出やすい配合と考えられます。
母ユウライコーの父は1971年にリーディングサイアーを獲得し、7冠馬シンボリルドルフの父としても知られるパーソロンで、ユウライコーの母ユウコウはアイルランドからの輸入馬だったため、父母はアイルランド産馬同士の組み合わせでした。
ライトカラーの父母の組み合わせは、米血主体かつクロスのきつい父ヤマニンスキーから見て、インブリードの弊害を緩和する効果があったと言えるでしょう。
ユウコウの牝系からはダートグレード重賞4勝のミツアキサイレンスが出ており、2018年12月現在JRAの現役馬ではオンタケハートが2勝を挙げる活躍をしています。

ライトカラーは1988年、2歳のデビュー戦で7頭立て7番人気という不人気馬でしたが、2着に4馬身差をつけて勝ち上がり、2歳時のレースではその後も好成績を収め、クラシック候補といわれるほどになりました。
ところが3歳になると状況は一転。シンザン記念、エルフィンステークス、桜花賞と思うような結果を残すことができず、オークスの優先出走権を獲得するのがやっとという事態に陥ります。

年が明けて4歳。迎えたオークスでは前年のエルフィンステークス、桜花賞と勝利したシャダイカグラが圧倒的な人気を誇る中、ライトカラーは10番人気。
しかし、シャダイカグラをマークする形で中団に位置したライトカラーは、直線で集中力を発揮します。抜け出したと思われたシャダイカグラと競り合いを見せ、ライトカラーはクビ差でオークスというG1タイトルを手に入れました。
この時、大北牧場から初めてのクラシック優勝馬が誕生した瞬間でした。

その後は調子を落とし、1990年のスワンステークスを最後に引退したライトカラー。
繁殖牝馬として大北牧場に戻りましたが、1993年2月に右大腿部を骨折。残念ながら予後不良と診断され、安楽死処分となりました。
ライトカラーが残した産駒はライトレターのみ。
オークス馬の子どもが1頭しか産まれず大変悔やまれました。

(※1)マルゼンスキー:8戦8勝、無敗の持ち込み馬。脚部に不安を抱えほとんど強い調教を課されなかったものの、8戦で2着馬に付けた着差の合計は61馬身にも及んだ。1990年、JRA顕彰馬に選出。

 

大北牧場の名馬③ 1994年 安田記念・マイルCS制覇『ノースフライト』

大北牧場の歴史 ノースフライト
ライトカラーがオークス制覇をした翌年、敏雄さんはセリですでにお腹に仔馬がいたシャダイフライトを繁殖牝馬として購入します。この時、シャダイフライトは18歳前後の年齢になっており、繁殖牝馬としてはあと1~2頭の仔馬を産むことができれば御の字。
お腹にいる仔馬が牝馬であれば繁殖牝馬として残そうと考えており、410万円ほどの値段で購入したそうです。そのため、産まれた仔馬ノースフライトは外には売らず、大北牧場の自己所有馬としてデビューを迎えることになります。

父トニービンはアイルランド産まれ。2・3歳時は重賞で勝ちきれない馬でしたが古馬になり本格化。凱旋門賞を含む6つのGIを制し、1988年にはジャパンカップにも出走しました(5着)。
引退後は日本で繋養され、ダービー馬のジャングルポケット、ウイニングチケット、オークス・天皇賞(秋)馬のエアグルーヴなど数多くのGI馬を輩出、1994年にはリーディングサイアーとなっています。
産駒は自身に似て成長が遅い傾向がありましたが、古馬になっても息長く活躍するタイプが多かったようです。

母シャダイフライトの父はアメリカ産のヒッティングアウェーで、現役時はイクセルシアハンデなどマイル前後の距離で13勝。おばには1945年の米年度代表馬ブッシャーがいる血統で、半姉グラマーは種牡馬ポーカーの母として知られています。
種牡馬として成功したとはいえず、直仔は中山大障害勝ち馬のオキノサコンとカチウマタローの2頭を出した程度の活躍に終わっていますが、BMS(母の父)としてはノースフライトの他に京成杯3歳ステークスなど重賞3勝のダイナシュートや4歳牝馬特別・西(現在のフィリーズレビュー)勝ちのダイナシュガーなどを輩出しました。
ノースフライトから連なる牝系には目立った活躍馬はまだ出ていませんが、比較的代が近いこともあり、準オープン2着のキロハナなど13頭の現役JRA所属馬が活躍しています。

ノースフライト自身は育成が順調に進まなかったため、1993年4歳(※2)で遅めのデビューとなりましたが、この時2着に9馬身差をつけての圧勝。次走の500万下条件戦でも8馬身差をつけて圧勝という華々しいデビューを飾ることになります。
その後、4歳時には府中牝馬ステークス、阪神牝馬特別という重賞2勝を勝ち取りシーズンを終えました。

(※2)当時の4歳。現在でいう3歳馬にあたる年齢

年が明け1994年。
5歳になってもノースフライトの好調は続き、5月には安田記念に出走。
前年より国際競走となったため、この年の安田記念は海外の一流馬たちが名を連ねるジャパンカップ並のレースとなりました。
ノースフライトはスタートで出遅れ、後方からスタート。
しかし最終コーナーで先団に追いつき、最後の直線の残り200メートル付近で先頭に立ちます。
そのまま2着のトーワダーリンに2馬身半差をつけての鮮やかな勝利を飾りました。

その後スワンステークスでサクラバクシンオーに負けを許しましたが、11月にはマイルCSに出走し、サクラバクシンオーと再戦。
スタート直後からサクラバクシンオーは3番手、ノースフライトはその後ろにつけ、最後の直線入口でサクラバクシンオーが先頭に立ちましたが、ノースフライトが直線半ばでこれを捉え1馬身半差で勝利し、コースレコードを記録しました。

大北牧場の歴史 ノースフライト
またノースフライトはその強さによるところだけではなく、当時は非常に珍しかった女性厩務員の石倉幹子さんとの『美人コンビ』としても人気を博し、パドックは石倉さんとノースフライトの名前が書かれた応援幕でいっぱいになったほどでした。

大北牧場の歴史 ノースフライト
前述のマイルCSを最後に、繁殖牝馬となったノースフライトは10頭の産駒を残し、その後も大北牧場で功労馬として暮らしていましたが、昨年2018年1月22日に28歳という大往生でこの世を去りました。
ノースフライトの仏前には、当時のパートナーであった石倉さんからのお花も供えられています。

 

現在、そしてこれからの大北牧場

大北牧場 齋藤善厚
最後に4代目である善厚さんに現在の大北牧場、これからの大北牧場についてお伺いしました。

「現在は6名のスタッフとともに大北牧場を守っています。
私より年上のスタッフもいますが、知識も経験も豊富なベテランスタッフの力を借りて、ロンギ場を(木を切ってくるところから)イチから、自分たちの手でつくるなど牧場の設備強化なども皆で協力しながら進めています」

大北牧場 現在、進んでいるロンギ場づくり

「馬という価格の根拠がわかりづらいものを売っているからこそ、クリーンな会社、いい意味で普通の会社でありたいと常日頃から思っています。
また馬の生産をしっかりやっていくというのは大前提ですが、ただ馬を扱っていればいいということではなくて、馬の世界の常識だけにとらわれず、一般社会の感覚を失わないようにニュースなどにもよく目を通すよう心掛けています。
これからもバランス感覚を大切に、大北牧場を未来に繋いでいければ」(善厚さん)

大北牧場 齋藤善厚


多くの困難を乗り越えながら、競馬史に名を残す名馬を生産してきた大北牧場。
記事の中で紹介した名牝たち以外にも、京都新聞杯を制したテンザンセイザや府中牝馬ステークスを勝ったテイエムオーロラなど多くの重賞馬を輩出しています。
現在もスタッフの皆さんと力を合わせて、さらなる進化を続けています。
今後も大北牧場からどんな名馬が誕生していくのか、今から楽しみでなりません!

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