134年前の偉業
皆様あけましておめでとうございます!今年もどうぞ宜しくお願い致します。
昨年、一昨年と重賞競走に勝たして頂き、これまで築きあげてきた事が、少しずつ皆様のお陰で成績に繋がってきました!
前谷牧場は、静内豊畑地区にあり、こうして大好きな馬の仕事が出来るのは、先祖代々この土地を守って来てくれたからこそであり、今日の前谷牧場の基礎を築いてくれたことに深く敬意を表し、祖先の偉業を偲び、今年のお正月は前谷家のルーツを調べて見ました。
家の本棚に「豊畑開基100年記念誌」があり、豊畑開拓の苦労が書き残されていました。
資料のままですと非常に長くなりますので、資料の文章などをお借りしつつ内容を私なりに纏めてみましたので、静内豊畑地区の歴史話としてご覧になってください。
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豊畑地区のはじまり
豊畑地区は元々、宗教の信仰団体が移住し開墾してきたそうです。
明治18年5月、今から134年前、淡路から渡辺伊平先生を移住団長とする講中が、悲壮な決意のもと、信仰の法灯を守り、志しを抱き、この豊畑の地を築いてきました。
法燈守ってルベシベヘ
この北海道移住のお話しは、明治17年12月初旬、阿万村(別の村)から官費で北海道に移住する団体がいると聞き、阿万村の移住総代佐渡万次郎と言う人と会い、北海道官費移住の話しを聞き、これを渡辺伊平に報告したのが、事の始まりだったみたいです。
渡辺伊平は信仰が難しくなってきたことでハワイ移住さえ考えていたので、大いに賛成し、ただちに講中をあつめて協議させたところ、衆議一決一同移住したいとの報告でした。
こうして願書をつくり、手分けして、軽井村、片田村、洲本村、広田村などの講中からわずか3日で調印をまとめ、戸長役場を経由して郡長の印を受け、渡辺伊平は兵庫県庁及び東京の農務省に出頭しました。
しかし時すでに北海道移住規則は改正され、官費移住の制度は明治17年6月以降廃止となり、自費移住者に対して、土地1万坪と小屋掛料として1戸20円下付されるという事を知らされて、急いで帰国しみんなにしらせたが、官費移住となれば33戸みんな移住出来るけれど、自費移住となれば10戸も移住出来ず、幾度か相談を繰り返した結果、財産の多少をいわず講中共同財産として売り払い、1580円のお金をつくりましたが、これだけでは人々の旅費だけで荷物の運賃は足りず、渡辺伊平は講中140余名の死活にかかる重大な問題を思い、悲壮の決意をもって神戸の三菱会社に折衝した結果、その熱意に動かされ、人々の船賃をもらい受けるだけで、荷物は無賃で輸送してくれる事を約束してくれたのです。
1270円の運賃は支払い喜び勇んで郷里に帰り、北海道移住の支度にかかりました。その講中の人々は33戸、男70人、女73人、計143人でした。
お題目唱えて開墾
一行が郷里洲本港を後に汽船和歌の浦丸に乗船したのは明治18年5月17日(旧4月4日)の正午の事で、途中横浜、仙台の萩の浜、函館を経由し、海路無事、現地下々方村といったいまの静内の浜に上陸したのは5月25日(旧4月12日)でした。
一同はまず稲田の旧臣だった瀬川芳蔵の網納屋に草鞋をぬぎ、まず仮壇を設けて宗祖日蓮をまつり、異体同心、力をあわせて新天地開拓の誓いを新たにしました。婦人女子は稲田家やその他の家に分宿して世話になり、翌日は船から家財道具の荷上げに費やし、戸長の案内で男達が荷物の食糧を背負って染退川を坂登り当初の予定地ペラリに足を踏み入れたのは、実に5月27日(旧4月14日)の事でした。見渡す限り樹木うっそうと生い茂り、人家は1戸も見当たらず、現在遺跡碑のある所で一同三番野宿して、小屋掛りに取り掛かり、草小屋を2つ建て、この二ヶ所へ移住者は分宿して、浜より婦女子を呼び寄せ、又荷物を運搬して3組に分けて、先生(渡辺)の指示を受けて開墾にかかりました。
荷物の運搬には、今のような道路もなく、馬車トラック等もなく、かついだり背負ったりして運んだそうです。馬を1日借りると20銭取られるので、日雇いし借り賃を支払いました。
日雇いすれば組の開墾が遅れるので、荷物を取りに行くには前日組頭へ願出て、許可をもらい、朝は未明に支度して浜へ行き、三里の道を往復し川へくれば日が暮れて夕飯すぎでなければ川番は居ず、土人等に頼んで渡してもらうにしても、五銭八銭もとられ、漸く川を渡れど、道のなき所、険しき岸にたどりつき、よじ登らないと、荷物が木の枝に引っかかり、夜なので、探り探りはいあがり、漸く小屋へ帰れば夜明け頃、家内を起こして湯を沸かし夕飯を食べ寝る間もなく、朝は早く起きて三宝様を拝し支度を整え仕事場へ、戸長から土地の仮渡を受けて開墾に取り掛かったが土地は荒地、道具は郷里からもって来た大鍬、唐鍬、ふみかえしなどで、なかなかはかどらず、それでもどうにか畑を耕して大豆小豆、粟、蕎麦、などを苗付け、移民補助金として1戸あたり金20円づつ、小屋掛料種子代として下付けされたが、その後の生活については、朝早くに起き、夕方は暗くなるまで仕事して、小屋も狭く荷物を置くと、人と人が重なりあうくらいで、寝返りすることも出来ず、
掃除洗濯をする暇もなければ、ノミシラミが大量にわき、身体中に食いつき寝れず、放牧馬が小屋の周囲を食い破らんとするし、その番兵は、夜も数度飛び起きなければならないし、昼はアブ、ブヨ、ブト等多く出てきて、所かまわず食いつき、出血し腫れ上がり、婦女子の手足顔等より血膿が流れ出て、見る目も可哀想で、小屋は、今日の住宅畳建具等の揃った家とはお話しにならぬ粗末な小屋でした。
まさに血のにじむような荒地開墾時代の生活を物語っています。
それでも「一同は宗教移住団体の精神を以って、一家のごとく協力一致異体同心、あらゆる困難辛苦を身に受けながらも、檞怠なく、益々勇をこして、開拓に従事致しました。」
少しずつですが開墾が進み、作物も大豊作ではないが、それでも収穫も終わって各戸自別に草小屋を建て、共同小屋から引っ越しようやく家族そろって暮らせるようになりましたが、夏以来ブヨに食われた所が一面ヒゼンが感染し、家族一同病み、薬を飲みたくても薬を買う金もなく、たまたま薬屋から薬を借りて、治療に当たったが、その薬も終いには品切れになって、取り寄せるまに、苦しみました。
この様な苦難に堪えかねて、講中以外の移住者は、ことごとく離散してしまったといいます。
開けて明治19年は四月中頃に大霜があって、小豆などは一時枯れ、麦、芋、粟、燕麦等を再び苗付けしたが、秋霜が早くおりたため、不作になり、食料不足に悩み、衣料を売って芋を買い、又開拓特有の病気オコリ(一種の間けつ熱)にかかり、軽い人で100日、重症者は一年もかかり、1日2日おきに定まった時間に身体中に寒気がして、ガタガタふるえ熱が高くなったそうです。
明治20年には、私の先祖、前谷権蔵含む7氏の家族が移住してきました。
冬に入って団体長の家の前に小さい座敷を作り学校と名付けて冬期間だけ子弟を教育し、これが小学校の始まりでした。
不作や病気を乗り越え明治22年と23年には、順調な天候に恵まれ、豊作となり、大麦250石燕麦350石を各戸別に割り当て新冠御料牧場に納めていました。入植以来6年目にして初めて愁眉を開いたのです。
それ以来寒冷地作物を取り入れ、この年から各戸2万5畝歩の畑に馬鈴薯を栽培して備蓄貯蔵として、さらに例外対策と、して別に毎戸麦2石を積み立て、他には見られない共同貯蓄の方法をとったのです。この両年は麦類が非常に豊作で牧場へ納めた他に600石売却し、残りを各戸別に飼料にしてもまだ余剰があり、大小豆も相当な収穫があり、村中の雑穀全部の検査をして、商人に売却し、他部落より価格がよく、ルベシベの渡辺組の雑穀は函館までも有名になりました。
また村内一同協議して三光堂(久遠寺の前進)を設立し、その上土地の賑わいに400余間の競馬馬場を作ろうと決議し、1000石以上の森林の払い下げを受け、冬中かかって切り運び24年の正月を迎えます。
道庁は明治24年、自費移住し一村落を経営、一方一戸の脱落者も出さず、北海道開拓移住の手本である。としてその賞品に一頭五分曳プラウならびに農具、馬具を贈ってこれを賞した。
開拓に成功をおさめ、村造りにも顕著なその実践は、輝かしくも藍綬褒章となって表彰されています。
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先人達の優れた開拓魂と偉大な人間性に心から感動し感謝の気持ちで一杯になりました。
宗教団体という異質な開拓団体ではありましたが、まれにみる優秀な開拓者として、その時代の模範者として、国や道から数々の賞賛を得て立派に成功させ、今日の豊畑の基礎を築いてくれたことに深く敬意を表し、祖先の偉業を偲びたいと思います。
生まれ育った大好きなこの地で、これからも馬作りに励んで行きます。
代々受け継がれる開拓魂、私の馬作りに対する挑戦もきっとこの開拓魂によるものだと思いました。
ご先祖様、どうか見守っていてください。